怒りの本質と現状




おはようございます。リンさんです。

ロスジェネ世代と呼ばれる世代が社会や組織の中で中間管理職になる年齢になってきたようです。

この世代は就職氷河期から雇用を非正規に鞍替えされる時代を生きたせいで、正社員として生活する為に自分が払った努力に関して大きな価値を持っています。

端的に言ってしまうと、自分の中で確固たる自信を持てるものがそれしかないというだけの話なんですが、努力に重きをおいたせいでヒトを正しく評価できないという問題点が現状を悪化させています。

努力が足りない、真面目にやっていないという評価は怠け者やオジサンの理論でしかありません。そこに気付けない限りは、面倒な上司としか感じないわけです。

リンさんも早生まれですから最後のロスジェネと呼ばれる世代なわけです。努力を払うべきは自分自身の事だけであり、ヒトを理解する上で大事にするのは自分の物差しではなく、その時代に必要とされる理解力であると肝に銘じて生きたいと思います。

アンガーコントロールとは怒らないようにする事じゃなく、怒りの本質と理由を知る事から始まる

怒るという行動の何が問題なのかというと怒り任せて行動してしまうという事に尽きます。アルコールによる一度の間違いクラスによくある事ですが、アルコール同様にその行動は致命的な汚点を得てしまう可能性があるわけです。

アルコールと違い素面の時に起こるものという点でも、その怒りについての相手の感情というものも長い間払拭できないものになってしまいます。

となると大事になるのは怒りをコントロールする術を学ぶ事ですよと言われてしまうわけですが、怒りが簡単にコントロールできるのなら世話は無いわけです。

世にあるアンガーコントロールとは自分に訪れるであろう怒りの引き金を知り、それが訪れるたびに怒りを冷静に分析する為の間を設ける事を推奨しています。

しかし怒りが必ず訪れてしまうのであれば、その方法は逆に面倒以外の何ものでもなくなります。

であるなら、怒りの仕組みと、怒りで得られるものが何かを理解した方が最終的な負担は少なくて済みそうだなと感じてしまいます。

「期待しているから怒るんだよ」なんて言われても、誰もモチベーションが上昇しない時代になっていると理解しないといけませんね。

子育てと部下の育成が全く別のものだという意見もあるでしょうが、自分よりも未成熟な相手に怒りをぶつけるという行動原理に問題が無いのだろうかとは思います。

怒りの基本機能

そもそも怒りとはどのような場合に発動し、どういった機能をもっているのでしょうか。

それを紐解くキーワードが、闘争ホルモンと狭い範囲の人間関係から考察できます。どちらも狩猟採集時代の頃から続くヒトの社会を支える機能であるといえるわけです。

闘争ホルモンとは、その名の通り戦いに適すように身体の機能を切り替えるホルモンの事です。

血糖値や脈拍を増加させ、闘争という行為によるストレスから身体を守ろうとする反応の事です。交感神経優位という言葉でよく説明されますね。

狩猟採集は小さな人間関係を保ちつつ食糧を求めて旅を続ける集団生活でした。その中で性交渉は比較的ふしだらで、ほぼ全員と経験があるような状態でしたから、独占欲とかそういったものとはほとんど無縁だったと考えられます。

つまり人間関係におけるストレスは無かったので、そこに闘争の発生する余地が無かったわけです。

という事は闘争ホルモンの出る機会というのは肉食獣と遭遇した際などの死を感じるような環境に陥った時に限られていたという事です。

これは怒りが感情を誰かにぶつける類のものではなく、生き残る為に発現されていた事を示しています。

もう1つが、狭い人間関係です。

狩猟採集時代とは数十人程度の集団が食糧を求めて旅を続ける放浪スタイルの生活を送っていたと考えられています。

その中では食糧に関しての不満なども多少はあったでしょう。そういった時に怒りという感情を用いていたかもしれません。

つまり怒りとは自分の我を通す為の強制的な手段であると言えます。

しかし少数の集団の中で自分の我を通す為だけに怒り続けているヒトはどうなるでしょうか? ホラーでも現実世界でも同じですが、そういったヒトは淘汰されてしまいます。

つまり怒りとは、生き残る為に発動する機能であり、それを自分の意思を通すためだけに使うとヒトに嫌われるわけですね。

肥大した人間関係は、相手を尊重できなくなる

怒りの基本機能を知れば、怒りを相手に放つ事は決して自分の為にならないという事が分かります。では何故、ヒトは相手に怒るのでしょうか?

それは単純にコミュニケーションを行う、仲間意識を醸成する上でのヒトの数の限界を超えてしまったからだと言えます。

ヒトは関わりを持つ集団を大きく維持する事は出来ません。田舎に住んでいる少人数の集団が仲間意識に優れコミュニケーションがよく行えていると言われるのは、この人数がちょうど良かったからに過ぎません。

またそういった集団を維持するための地元特有の宗教であったり、地域行事であったりといったものがあったので、そういったものに参加しない場合は村八分という処置も存在していました。

だから常に自分自身という個人の感情と同時に、地域に属する相手の感情を考える必要があったわけです。

大規模な人間関係になった現代において、多過ぎる人数はヒトの脳では処理できません。処理できない時、ヒトはその数の多さを無視するようになります。

これが個人主義の最も大きな問題点と言われている点です。個人主義を採用している海外では小さなチームで事に当たるというのは当たり前の感覚で行われるものですが、ムラという共同体を運営していた日本人にとってムラより狭いチームという認識は中々浸透し辛かったのかもしれません。

そこで規模は大きくなるに任せてしまい、人数が処理できなくなってしまったわけです。そこで生まれたのが相手の存在の軽視や無視でした。

自分の所属しているムラ以外の存在に対して、怒りをあらわにしているわけです。自分に関係ないと思っている相手ですから怒っても何も自分が傷つかないと思ってしまうわけですね。

そこに至って、怒っていた本人が保護されていた時代が終わり、怒りを受けた相手こそ被害を受けているという認識の時代になってきた事で様相が一変しました。

怒りとは自分の感情を、自分の管轄する領分に所属しない相手に吐き出す自分勝手な行為なわけです。

今までそれは相手の未熟さや力量不足、相手の成長を期待してといった言葉によって誤魔化されてきましたが、そんな論調でそもそもヒトが成長するわけないという考えが浸透してきた事で時代錯誤の考えになってしまいました。

とりあえず、怒らなくたって相手に自分の気持ちを伝える事は出来ます。それは完璧じゃないかもしれませんが、怒りを出してしまう事で相手との交流がなくなってしまうリスクよりも、ずっと伝え続ける事が出来るメリットの方がはるかに大きいわけです。

最後まで読んでいただき、いつもありがとうございます。










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