争いは集団規模に比例して過激化する

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おはこんばんにちは、リンさんです。

ハリウッドセレブのミラ・ジョボビッチさんがケトジェニック・ダイエットは継続が難しいとする立場を表明したとニュースになっていました。

自分にとってはベジタリアン食の方が性に合っているとも記事には書かれていましたね。

反対の立場になった意見としては「ケトジェニックは栄養学の専門家にならないといけない」というものだそうで、これにはリンさんも同意します。

ケトジェニックと地中海食の間にある決定的な違いが、地域に根ざしているレシピのようなものが存在しないという事だと思っていますし、そのレシピの少なさ故に新しい事過ぎるように写るのかななんて思います。

「こういう食べあわせがあるよ」っていうのが提示できないというのは意外とヒトを不安にさせるものですからね~。

ヒトの知性はケモノの本性に勝るのか?

「アリの戦争は人類の戦争とよく似ている」のはなぜか?』という記事が面白いです。

群れの規模によって戦争になった際の行動が異なるというもので、その異なり方がヒトと良く似ているという話です。

小規模な群れでは、アリも人類も相手を殺すよりも「逃げる」ことを選び、これは狩猟採集生活を営む原始的な人類も同様だそうです。

他の群れとの抗争が起きそうな場合は、守るべき資産を持っていないため、ほとんどはすみかを移すことを選ぶようです。

守るべき資産を持っていないというよりも狩猟採集生活時の人工密度というと東京都全域に20数人規模の集団が数組存在する程度でしか無かったそうなので、そうなると生活場所を移した方が良かったのでしょう。

ヒトの習性として脅威からは基本的に逃げるというのが特徴ですが、それはこういった人口密度の低い状態が基本の状態で多くの時間を過ごしてきたからだと言えるかもしれませんね。

これが中規模になると一定のルールが守られる戦争状態になるそうです。アリの社会ではお互いに代表者を出して、その個体サイズを比較して小さな方が撤退するそうです。

ヒトだと、とあるアフリカの部族などは相手が盾や防壁を持っている部分に投石や槍を投げて威嚇行動のみを起こし、その後で協議を行うそうです。

これは戦国時代にも言える話で、たとえ殺し合いになったとしても田畑に被害を出さないというのは暗黙の了解だったそうです。

つまり手段として戦争を選んだとしても目的を違えるような行動は起こさないという理性があったという事ですね。

しかしこれが大規模集団になると話が変わってきます。数が1万を超えた辺りから過激化が始まり、それが数十万にまで膨れ上がると過激さが最大化するそうです。

ヒトが過ちを繰り返すのは何故か?

ヒトは過ちを繰り返します。そしてそれはヒトの愚かしさだとする考えが大半でしょう。しかし、それが業であると考えてしまう事こそ思考停止であると言えます。

本来、戦争とは政治的議論、国際経済への関わりなどが不十分な為に起こる準備不足で起こってしまう最終手段です。

かつての日本は欧米列強の帝国に追いつけ追い越せが先んじてしまい、自身が追い求めていたはずの大東亜共栄圏よりも優先して軍備拡大を進めてしまいました。

それは白人優勢の当時の社会では異端中の異端であり、植民地に勇気を与えると同時に当時の帝国の怒りを買ってしまったので経済制裁の憂き目に遇ってしまいました。

当時、日本を支援するような国家は存在しなかった為に、帝国からの供給が無くなってしまい経済が停滞した日本は、戦争して共栄圏を拡大するという手法しか選択できなかったわけです。

しかし本国と同じような建築技術や学習機会を与えるという植民地経営を主体としていた日本は、植民地を増やせば増やすほどジリ貧に陥っていきます。

そもそも大東亜共栄圏と侵略戦争は全く関係の無い戦略だからです。時間をかけなくてはいけなかったものを焦りのあまり見失ってしまった事で日本は、迷走を始めたわけです。

とまあ、こういった具合に色々考えられなくなった事が問題なわけですが、これは何故でしょうか?

戦争になると多くの若者が戦死します。その結果、若者を中心とした文化というものは衰退していきます。

戦争が終結すると若者は戦死しなくなり、若者を中心とした文化が大きな熱エネルギーを持って生まれてきます。

日本の場合は、このエネルギーが戦争への嫌悪などに現れてきました。

戦争が終わり人口が増えてくると若者の文化への熱量は薄れていきます。しかし元々大きな熱を持っていた戦争への嫌悪という感情を持って育った当時の若者は、熱を次代に繋げようとしていきます。

この感情は次代に伝わりますが、そもそもこの感情が持っていた熱は伝わっていきません。その結果として、そこに温度差が生まれます。

戦争が悪い事だと思うだけの思考になってしまうと、次に生まれてくるのが、その思考を逆手に取る相手が現れる事です。

戦争の悲惨さ=過去の日本人の罪であると認識すると、意味の薄い罪悪感を持つようになってきます。

しかしそこに付け入り、自己の主張を通そうとする相手にとってこの罪悪感こそ最高の攻め手になります。何と言っても戦争を行わずとも、相手の国を内部から崩壊させる事が出来るからです。

戦争の経験を知らないというのは素晴らしい事です。しかし戦争という定義や意味を知らないのは問題です。

我々は過去の過ちから学ばないといけません。そしてそれは相手に謝罪を続ける事では無いわけです。

もし相手に迷惑をかけたなと思ったとして、反対に迷惑をかけられたなと思ったとして謝罪されて嬉しいでしょうか?

「アナタの手を煩わせない程度には成長しました。あの時はありがとうございます」と言えた方が、言われた方が前向きだと思いませんか。

もしそんな事を言って「そうじゃなくて誠意を見せろ。謝罪しろ」という相手がいる場合、その多くはただただマウントを取りたいだけの無意味な相手ですから相手にしないほうが賢明です。

不謹慎だと思える事も誠意を持って考えられるかどうかは重要な考え方です。

ヒトが過ちを繰り返すのは、過去の過ちから自分の贖罪を求めるからです。過ちから学ぶのは過ちに至った過程の客観的事実のみで十分です。

最後まで読んでいただき、いつもありがとうございます。










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