コロナウィルスから経済と生命を同時に守る政治
コロナウィルスは非常に速く感染を拡げています。そろそろ政治的な大英断の欲しいところですが、現実は下手な考え休むに似たりといった感じですね。政治家に必要なのは素人なみの突破力だけなんですが、偉いと思うと議論をするのがお仕事だと思ってしまうようで。
コロナウィルスは非常に速く感染を拡げています。そろそろ政治的な大英断の欲しいところですが、現実は下手な考え休むに似たりといった感じですね。政治家に必要なのは素人なみの突破力だけなんですが、偉いと思うと議論をするのがお仕事だと思ってしまうようで。
新型肺炎。全貌が見えないまま感染数増加の報告だけが独り歩きしており不安が募りますね。そんな中で情報に踊らされるのはヒトの常ですから仕方無いです。ですがまあ、そこを飲み込んだ上で冷静に行動しないといけないんではないかなとも思います。
自然はヒトの手により破壊されています。どのように破壊されているのか、どのように改善していくのかは意見の分かれるところですが、ヒトが自然と再び共生関係になる事は非常に難しいと言わざるを得ません。それは環境的に厳しいはずの放射能汚染区域における1つの真実が如意に語ってくれています。
糖質と呼ばれる物質は植物の主成分です。そして糖質こそ「動けない」植物の生存戦略であり、その戦略は上手くいきヒトは植物に支配されたわけです。
自分らしくあるというのは言葉尻は良いのですが、その実現に困難を極めます。どうして自分らしくあるのが難しいのか。それはもしかしたら満たされた社会の弊害なのかもしれません。
知識が増えると無駄が増え、選択肢が狭まります。そうならないように知識は知性に昇格しないといけません。まあ難しく考えるよりも自分の言葉で知識を説明できれば知性になったって感じで大丈夫なんですけどね……。
自己を省みず、正しさだけを追従する生き方は質を劣化させていきます。個人であれば気付き1つで変われるものでも、それが国家ともなると難しくなります。だからこそ言論というのは自由であるべきなわけです。というわけで他国に干渉してみます。
声を上げない日本人は国際社会でバカにされがちです。しかし往々にして、日本人が口を開くと薄っぺらいどうしようもなく中身の無い主張をしていたりする事もまた事実な訳です。今回は戦争を知らない世代が戦争の悲惨さだけを声高に叫ぶ事の弊害について考えてみます。戦争の悲惨さを叩き込まれた世代が老害となり、戦争を知らないニュートラルに物事を捉える世代に切り変わろうとしているからこそ老害の酷さが目立ってくるのかもしれません。
社会主義とは誤解覚悟でざっくり説明するならば、全ての資産と資本は社会共有の財産であり、それを均等に分配する事で全員が平等な生活を送るって感じのヤツです。日本はその思想に資本主義の金銭感覚を持ち込んでいる為、富の分配は行われず労働、しかもマネジメントなどではなく有り触れたワーカーレベルの仕事を身を粉にして行なっている社会構造となっています。よっぽどアリの社会の方が機能的じゃないですかってお話です。
マッチョは風邪を引きやすい。これは通説ではなく事実であると言えます。筋肉ムキムキは免疫ヨワヨワなのは何故なのでしょうか? 豪快に筋肉を身に纏っても繊細な食事内容と栄養素のコントロールが必要になる為に筋肉つけるのは金持ちの趣味になっちゃうわけです。
日本が社会主義国だと仮定すると、安い賃金で安価な製品を品質良く作る事に主眼を置いている意味がよく分かります。富は平等に分配される為に存在するわけですから、収入の差は決して大きくないと考えられるのでそれが成立します。しかし現実の日本は資本主義国であり貧富の差は大きくなっています。つまり労働環境は社会主義的で経済は資本主義で回っている事に全ての問題が集約されているわけです。ここらの勘違いが社会を大きく歪ませオジサンという魔物を生み出してしまっているのかもしれません。
何でもかんでもハラスメントをつければ問題史できるような風潮に便乗した形になってしまうのは心外な部分がありますが、食いハラはスポーツの世界や学校給食などで問題となっているので取り上げる事は悪くないのかもしれません。食べなきゃ大きくなれんぞとかそういう考え方は「お母んかよ」って感じですが、たっぷりの愛情と科学的事実が同居していない文言は暴力になるのでしょうね。
固定観念にハマり個人的な主張を社会全体の意見だと思い込むようになったオジサンという種族が嫌いです。しかしそれはリンさんがいずれその場所へ到達してしまう事による自己嫌悪でもあります。更にそれが割と近い将来に起こるのではないかと思うほど、固定観念が増えてきている事も感じています。固定観念を曝け出す事で自らの思考を理解する。これが大事なんだと思います。
糖質制限を推奨している立場ですが、物事はキチンと判断する必要があると思っています。例えそれが否定的な意見だろうと考察する必要性を感じます。もちろん顔を突き合わせてずっと議論し続けるという話ならば、そういった否定的な皆さんと話をするというのは苦痛でしかないので、そこは考え物です。
世界に誇る美食家である日本人。繊細な調理法と盛付。四季折々の旬を際立たせる料理たち。イタリア、フランス、中華に並ぶ美食料理。しかし美食とは何でも食べる精神を持ち合わせた悪食という意味でもあります。日本人の美食へのこだわりがどういう風に健康に関係しているのか。そこんところを考察していきます。
リンさんにはあまり関係の無い世界ですが、健康に関するトピックスを発信するだけで専門家と呼ばれるヒトたちから「賢明ではない」「続くはずが無い」というような批判的な意見を言われる時があります。これは発信力であったり影響力の強そうなヒトに関して顕著なわけですが、何故情報発信が賢明ではないのか? その辺りを深堀します。
自らの主張があってもそれが国家の根幹に関わるような事でなければ加担しない。リンさん的には選挙には行くけど、糖質制限の集まりとか推奨派と否定派で対立している中に飛び込んで議論するとかはバカバカしいから行かないって感じになります。国家とはカタチを存続させようとしなければ簡単に無くなってしまうものであって、主義主張は自分が実践する方法論なので無くなりゃしないからです。
多くのヒトが危惧を抱くように、ゲームによってヒトの死にリアリティを感じられなくなる為、犯罪を起こす可能性があるという問題が考えられています。しかし殺人という事象を紐解いていけばゲームが広まったから殺人件数が増えたとは言えない事が分かります。ではゲームは危険なのか安全なのか? 脳の依存という構図に焦点を充て考察します。
批判は良くないよと耳にしますが、変なオジサンほど妙な持論とプライドで批判を正当化しますよね。健全な議論には正と負の割合が整った舞台が必要ですから、安易に批判的だからと眉をひそめてもダメです。ならば何故オジサンの繰り出す批判的な意見がダメだと論じられるのでしょうか。それはオジサンという生き物が、完全な個体である大人から年齢を重ねると社会的な集団の中での価値を無くしていくことに意味があるような気がします。
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