おはこんばんにちは。リンさんです。
お薬への信仰というものがあるような気がしています。「あの医者は薬を出してくれないからヤブ医者だ」なんて言葉も耳にするくらいに蔓延しています。
現代において「薬を出し過ぎる医者こそヤブ医者」な事は認知されつつありますが、それでも尚このお薬信仰は根深いものがあります。
需要と供給の関係性から考えるとそれもまた納得の出来る話で、つまり薬を処方される事による安心感を得たい患者とその欲求を満たす医師という関係性が成り立っているわけです。
さて……、これって言い方を過激にすればタダの薬物依存ですね。
薬の過剰処方であるポリファーマシーが関心を集めているといわれている中、世界一の処方薬依存に陥っている日本はこの矛盾をどう解決していけばいいのでしょうかね。
コップから溢れた水
自己実現、自己肯定感など自分らしくある事に大きな価値を見出す世の中になってきました。
しかし現実的に自分らしくあろうとする姿勢は、社会に適応しようとしない姿勢と見做される事も多く、実現の難しい話になっています。
そもそも「自分らしくある」という生き方そのものを他人の物差しで考えてしまっている現代そのものに問題があるわけですが、それを差し置いても一体どうしてこんなに自己実現が困難なのでしょうか。
その答えの指針に「ヒトは満たされる為に行動する」という点が挙げられます。
不足しているものを満たそうとする行動こそヒトの欲求なので、満たされていない状況が存在していないとヒトは行動できないわけです。
では自己実現の難しい現代は満たされていないのではないのか? という疑問が浮かびますが、ここに大きな墓穴が存在しています。
ヒトは社会を自然から独立した姿でヒトの知性を持って作り上げてきました。つまりそれは自然発生的な欲求を満たすのではなく、とにかく日常生活における不便を解決する方向性で社会を構築してきたわけです。
社会は不便を満たすように進化してきたという事は、日常生活で感じる不便が一切存在していないという事です。
不便が存在するからヒトは行動を起こせるわけですが、最も理解しやすく認知しやすい日常の不便が極力無い社会で過ごしている為に、現代はとにかく行動を起こしにくいようになっています。
そこに自分として存在する意味であるとかそういった哲学的な命題を抱かなくても、日々何となく生きているだけでそこそこ楽しいのが現代なわけです。
しかしそこには自分で選ぶという行動の選択肢が存在しないので、ヒトによっては非常に味気なく感じる部分があり、それこそが自己実現の難しさの正体であるとも言えます。
そもそも社会が物理的な不便を解消できる程度には満たされているという事、そしてその利便性がはっきりと認知できないようになってしまっている事、この2つが合わさる事で説明の難しい味気なさや面白みの無さが人生に影を落としてしまいます。
満たされているから満たされている事に気付けない。満たされすぎて自分の容量以上のものが周囲に溢れているから息苦しい感覚から抜け出せない。
これによって何となく自分の人生を生きている気がしないから、自己実現なんて夢のような話に感じてしまうのかもしれません。
いずれ「満たされない事」に関心を持たないといけなくなるのかもしれませんね。
最後まで読んでいただき、いつもありがとうございます。
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