何故、努力が報われないのか?




おはようございます。リンさんです。

「最近の子は根性が無い」という言葉は昔からよく聞きます。しかしこういった視線に欠けているのは子どもという存在の大人からすれば愚直とも言える直向きさです。

真っ直ぐに一生懸命やってしまうが故に自分の限界を越えてしまう事も多く、そこで根性を見せろと言われれば限界以上の能力を行使してしまうわけです。

ここで重要になるのが大人の役目であり、これこそが社会のストッパーとしての大人の役割となります。

さて、そう考えると今の大人は社会のストッパーとして、自分よりも若い世代に対して制止という機能を正しく発動させられているのでしょうか?

勉強や練習といった言葉で無理難題を振りかけて、自分と違う世代が持っている新しい価値観や夢といったものを否定してばかりではないでしょうか。

国家と国民はイコールの存在であり、社会とは国家の作り出す国民が生きていく空間の事です。その社会は誰のものでもないわけですが、継続性を考慮した場合、社会はより若い世代の為にあると言えます。

若い世代が主役であるからこそ老いた世代の世話が出来るわけですが、現代社会はどうにも老人の描いた泡沫の夢に踊らされているような気がします。

努力が美徳であるなんて、ものすごく矛盾しているっていうお話

世の中で価値があると思われている事の大半とは他人の作り出した尺度です。それが特定の誰かの都合が良いだけの話だという事を巧妙に隠している事が多いわけです。

世の中を斜めから見ていると言われればそれまでですし、事実として世の中で常識的だと思われている事を疑っているわけですから否定もできません。

しかし常識という名前で広まったその価値観は疑えないあるいは疑いにくいという点で理論としてかなり大きな矛盾と弱点を有しています。ですから常識は科学的では無いと言われちゃうんですね。

疑えなければ議論にはならず、疑ってしまえば異端として扱われ、常識から外れてしまえば個性も認められないというのは、果たしてこれからの時代を迎えるにあたって生き残っていける戦略になり得るのでしょうか。

「経済的に豊かになっただけの社会主義国家」と揶揄される事もある日本の未来はどこにあるのでしょうか。

そういった現状を鑑みた時に、やはり問題であると考えられるのが美徳や道徳観念による社会通念の醸成が挙げられます。

美徳や道徳は個人の生き方の指針であり大変重要なものです。しかしそれが個人の生き方である以上は、美徳や道徳観念を自分自身で持ち合わせ、それに倣って生きているのだという評価自身も自分自身で行わなければいけません。

日本での美徳という物事の問題点は、それを自分が持ち合わせて生きているかどうかを他人が評価するようになっている事です。

美徳とは道徳の事です。道徳とは穏やかな心境に達するまでの方法論としての道と、達した後に得るであろう自分自身の心境である徳を合わせた言葉になります。

通常、道は他者から教わりますが、その道に恥じていないかどうか、つまり徳として自分の中に変化があるかどうかというのは自分自身で決めるべきものなわえです。

日本では道しか教えず、しかもその道を歩めているかどうかの評価が他人になっているわけです。

道徳とは自分自身の心の在り方の1つですから、自分で決めて自分で評価する事で初めて効果を発揮していくものにも関わらず、評価を他人がするという矛盾でしかないシステムを採用している日本の道徳では心の在り方を作り出す事が出来ません。

もっと言ってしまえば、日本の道徳観念の教育で作り出せる人種は他人の評価だけを絶対的な価値観にしてしまうわけです。

これは非常に危険ですし、矛盾を抱えています。何よりこれでは道徳の意味がありません。

儒教と呼ばれた道徳観念は生まれた国で絶滅に追いやられ、過去の日本でその思想を持ち帰った偉人達のおかげで花開きました。

しかし現代の日本で道徳は再び滅ぼうとしています。自分自身の心の在り方を決める大事な考え方だったものが、他人の評価を絶対的な価値観に感じるようにするものへと変ぼうを遂げています。

そしてこの日本式の道徳観念の中で最も醜悪な存在が努力が報われるという美徳です。

確かに努力はヒトを、自分自身を裏切る事はありません。しかしそれは自分で決めて自分で評価する場合に限ります。

才能を発揮するアスリートも、表彰を受けるような文化人も、様々な芸術作品を世に生み出す芸術家も全ては自分自身で決めた努力を貫いた結果、、そうなったに過ぎません。

そしてその自分の為に努力出来るという才能と、自分がこの道を極めようと思った分野の素質、その分野への知的好奇心などが合わさって、努力が報われるわけです。

1番になったから素晴らしい、表彰されたから偉大な芸術家だというのは他人の評価に過ぎませんよね。

しかしその高みに到達できるくらいに自分で努力すると決めているわけです。ですからそういった方たちはおおむね公人として謙虚であり、対人の対応も丁寧です。

自分の価値と自分の努力を知っているから、他人の価値や努力にも心を割く事が出来るのかもしれません。

一流と呼ばれるヒトたちが、自分で決めて自分で努力する事で結果を出しているから「努力は報われる」のであれば、日本式の道徳観念で自分の評価よりも他人の評価を重要だと思うようになる事とは矛盾を抱えてしまいます。

スポーツ、文化、芸術、最近ではeスポーツもそうですよね。こういったものが広まらない理由とは何かと考えた時に、日本にはこういった道徳に関する問題もあるからだと思ってしまいます。

価値観が固定された社会、画一的な道徳観念、安定という概念への盲信などという特徴から、日本は社会主義的であると思われても仕方ないと感じる部分もあります。

20世紀で社会主義や帝国主義は滅び、現代においては独裁と民主主義の争いとなっている現代で、日本だけが社会主義的であるわけです。

日本ならではの価値観を重視するのであれば周囲の国が持っている価値観の中に埋もれてしないようにしないといけませんが、今の日本では相手の価値観を下に追いやり、自分の国は素晴らしいという以外にありません。

道徳観念への問題提起から亡国への懸念にまで達してしまいましたが、問題点は道徳観念の評価基準がオカシイよっていう話なんです。

最後まで読んでいただき、いつもありがとうございます。










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