祖父の看取りから感じた事




おはようございます。リンさんです。

何でアイツはこの程度の仕事が出来ないのか? 最低限ヒトと関わるように生きていると、組織に属さなければならないので、こういった言葉を聞く事があります。

リンさんもご他聞に漏れずそういった意見を平気で吐いていた1人のオジサンなので分かりますが、こういった人種にはいくつかの視点が欠落しています。

  • ヒトと自分の違いが分からない
  • 相手に自分の欠点を投影している
  • 自己承認欲求が満たされていない

ひっくるめると、ヒトの気持ちが分からないって事になるのでしょうか。正当な理由を以って正当に怒っているのは分かるのである程度までは許されますが、程度が過ぎればその怒りを理解してくれるヒトがいなくなり孤立していきます。

出来る事なら自分の世界と同じくらい相手の世界も思慮に入れれば良いのですが、どうしてもヒトは自分の世界を定義する常識が相手の世界にも存在していると勘違いしてしまいます。

アイツは仕事が出来ないという共通認識を持った相手とヒトをバカにする話で盛り上がるのは大いに結構ですが、そればかりでは自分自身の成長も周囲の意識の切り替えも出来ませんから、出来るだけ程ほどにした方が良さそうです。

終末期における医療などの問題は確かに存在する

日本の終末医療は問題を抱えています。具体的には高齢化によって病気が発症する確率が増加した事。病気を早期発見する為の検査が増えた事。そして極めつけは早期発見した病気を治療できる有効な手段を西洋医療が持ち合わせていない事です。

これらを改善する事の出来ない医療のシステムを抱えてしまっているので日本の医療は先進国の中で唯一、ガンによる死亡者数を減じる事が出来ていないという結果を導いてしまっています。

先進的な医療行為で病気が減らないと言う事はそれは敗北を意味していますが、多くの日本の医師にとってそれは大きな問題では無いようです。それは多くの医師がリスクを回避し標準治療をする事で治療行為を行っていると信じ込んでいるからです。

そして問題の根幹がこの医療のリスクを回避するという姿勢にあります。

この事はずっと問題になっているという事は知識としては理解していましたが、事実として自分が経験するには至っていませんでした。でも少し前に母方の祖父を亡くした時、入院時に感じた違和感でそれを身近に感じたわけです。

それを確信に変えてくれたのが鹿児島認知症ブログの「終わりに向かって歩む父」という記事です。この記事内で筆者は父を入院させた際の対応に医療の問題を感じたそうです。

特に共感を覚えたのが、夜間せん妄を引き起こしそれに対処しないままだと昼間はずっと眠っているので、最終的にリハビリも運動も食事も満足に行えずにベッドにずっと居続ける事になり体力がかなり衰えるという部分です。

リンさんの祖父も入院して体力はドンドン衰えていきました。夜間せん妄は医師も看護師も認識していました。それでも対処はされず昼間は眠り続けるようになり、入院からひと月程度でこの世を去りました。

87歳で大往生だと言われていましたが、それはそれとして医療行為に問題は感じます。夜間せん妄の危険性などへの理解は医者がしていなければ、いくら患者やその家族が言っても要望として叶えるのは難しいものがあります。

何より入院するくらいだし高齢だから死ぬんだなという家族の空気感が重苦しいもので、それでももしかしたら退院して元気になるんじゃないかなんて希望を持っていたのでショックが大きかったようです。

リンさん自身は夜間せん妄とその危険性を知識として持っていましたし、お見舞いの時に「ああ……。コレはもうダメだろうな」という感覚を持ちました。

夜間せん妄へ対処していなかった点。医師や看護師は見回りに来る事が少なく、患者の世話は介護士のようなヒトがやっていた事。声かけの少ない対処など色々な面でこの入院は良くない部類のものだと理解したわけです。

田舎ですから家族は医者に任せれば良いという判断ですから、言っても仕方ない事だとも分かっていました。だから、帰り際に祖父にはもう会えないだろうなと覚悟を決めたわけです。

こういった終末期における医療の問題とはおそらくどこでも抱えているものだと思います。看取るという事を真剣に考えている医者は非常に少ないのが残念ながら現実です。更に看取るという事を現実の出来事として家族が受け入れていないというのも事実です。

高齢で目も耳も悪い為にコミュニケーションが取り難い祖父でしたから、入院してからは医師や看護師に任せっきりでした。もちろん家族が近くにいないという意味ではないのですが、果たして夜間せん妄を果たし消耗し切っていた祖父に寄り添えていたのかどうかというのには疑問が残ります。

しかしこれもリンさんが母方の祖父とは同じ家で過ごしていなかったから持ちえる感想なのだとも思っています。高齢で認知機能に問題を抱えてしまった家族と一緒に住むというのは、どれだけキレイな言葉で飾りつけようとも苦痛を伴う行為です。

つまり家族も、もう祖父が亡くなる事を大前提としていたという事が言えます。そして、そうではない心も当然の事ながらあるので突然の別れに後悔をしてしまうわけです。

こういった時に、やはり医療の側からの選択権の提示が大事だなと感じます。西洋医学ではない手段を選択できる可能性や、新たな知見から得られる情報から正しく看取る為に患者に寄り添う手段などは、とてもじゃないですが情報手段の乏しい田舎では難しいものがあります。

家族から言われる事だから、新しい事も受け入れられなくなります。そんな中でも田舎の医療はお医者さまへの意識が大きいわけです。

看取ると感じていたから後悔が無かったのか。距離がそれほど近くなかったから後悔が無いのか。思った以上に自分が冷たいのかもしれないと再認識してしまいました。

最後まで読んでいただき、いつもありがとうございます。










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