他人の問題にだけ注意を払い、自分の問題を認識できない日本人の老害と劣化




おはようございます。リンさんです。

人生にリセットボタンが欲しいという文言については理解できるものがあります。理解できますが欲しいとは思いませんが……。

どちらかと言えば欲しいスイッチは強くてニューゲームなんですけどね。過去に戻ってやり直せるならっていうのはヒトなら誰しも抱く願望でしょう。

まあしかし、その人生における後悔というものがヒトの精神を成長させる気付きにもなり得るのですから一概に人生における間違いが全てダメっちゅうわけでもありません。

謝罪を求める姿勢と忖度を求める姿勢はどちらも同じように映る

日本人とはお気楽な人種だなと思います。日々の糧に必要なお金に関しての不安に苛まれているのは日本経済の宿命だとして、それ以外の日本人が抱えている問題点というものに関して実に不感症だからです。

自分の問題点に対して甘いというだけなら兎も角、さらにそこに相手の問題に関して厳し過ぎるというのがあるから困りものです。

ましてやそれを指摘するのが優しさだと勘違いしているヒトも非常に多いわけです。優しいのであれば自分の事をきっちり責任持って考える事の出来る大人を作るべきなんですが、そういった本質が語られる事はありません。

自分の要望や希望を叶えさせるのに、自分よりも若い世代が自分よりも賢くなっちゃうと都合が悪いからです。

そんな「ヒトの不幸は蜜の味」という日本の社会ですが、そこに日本人以外の多くの人種が関わってくるようになると、日本社会で製造されたおバカな思考回路を披露すると本気でバカだと思われてしまいます。

最近、特に目立って酷いと感じたのがアーティストの表現に関して起こった日本式の忖度に関してです。

核を表現した服を着ていたらダメという不思議

韓国のとあるアーティストが核爆発か核爆弾かをモチーフにした服を着ていたそうで、それを理由に日本の音楽番組が出演を取りやめにしたそうです。

日本で時折起こるのが、こういった常識的に考えて非常識なものや不謹慎だと糾弾できるものに対する強烈なバッシング、つまり不謹慎狩りです。

唯一の被爆国である日本で核の演出をするなんて非常識な輩めって事ですね。

この考え方の何がそんなにバカなのかを考えていきましょう。

①核アレルギーの過剰反応によって鬱憤ばらしを行なっている

ヒトの怒りは常に自分の中にある何かを満たそうとして起こります。

精神的に不安定であればあるほど、その妄想じみた怒りは被害者意識へと変換され他人を攻撃する材料に成り下がります。

日本では常識から逸脱する行為は異端とされます。しかし、それはいつ誰が決めたルールなのかはっきりしません。

日本人の民族性がそうであるとするならば、異端を排除する社会はとっくの昔に排除されているので日本も消え去っていないとおかしい話になります。

となるとこの価値観はそう遠く無い過去に作り上げられ教え込まれたものであると考える事が出来ます。

そして日本で教育を最初っから変えてしまうような出来事が起こったのは第二次世界大戦(大東亜戦争)が最後だったはずです。それ以前は明治政府開闢ですが、その頃は大日本帝国ですからね。

常識を疑うとは、常識が誰によって決められたものなのかを疑うという事です。これが出来なくなった日本人は常識に縋る他に思考法を見出せませんでした。たったそれだけの事が日本の病的なまでの無思考を生んでしまったわけです。

②唯一の被爆国という免罪符の間違った使用法

この思考から導かれる文言に、日本は唯一の被爆国というのがあります。それが原子爆弾を人権を無視して投下され実験台となったという意味で使ったとしても、この認識は間違っています。

被曝とはその国家に住む住人の了承無しに発生するものです。当たり前ですが、被曝させようとして被曝するような行為を相手に行えば人道に反するからです。

日本が被曝を経験した国として求めているものは、今のところただの忖度でしかありません。

「被曝しちゃってるからさぁー、ちょっと気ぃ使ってくんね?」って感じです。

被爆国という言葉を用いて核廃絶などの行動に移るのであれば、国内の原子炉の問題に早々に終着点を定め、大国からの侵略で民族浄化の憂き目に遭い、さらに自らの土地を核実験施設にされそうになっているチベットやウイグルの窮状に糾弾の矢を放つべきです。

被爆国だからこそ出来る事について国内の事をしっかり処理し、更には国外の事にまで言及でもしない限り、自分は被曝したので気を使ってくださいねと言っているに過ぎないわけです。

それは戦後数十年という月日が流れても賠償を求め続けている人種と姿勢が変わりません。

弱さを主張するなら、それを克服しどう強くなるのかを提示しなけりゃなりません。

③核というものへの無理解

最後に、核こそ悪の権化であるかのように認識している点が問題として挙げられます。

例えば自動車は便利な移動手段であると同時に高速で走行する危険な金属物であるという側面を持っています。だからこそ安全運転を謳われるわけですね。

つまり、道具とは使う状況次第、つまりその状況を判断するであろうヒト次第であるという点をとかく忘れがちです。

まあ中には「共産圏の核は良い核で民主圏の核は危険だ」と発言する痛い政治家もいましたが、基本的に主義主張で道具を使う時、悲劇が起こるというのを忘れがちです。

では核の良いところとはどこでしょうか?

危険な部分は放射線と爆発時に放出される核降下物ですね。これは人体を蝕み遺伝子を変異させるほどに傷つけます。

核の道具としての便利さには2点あります。1つは対外交渉の切り札となる事、もう1つは戦局を一気に変えてしまう事です。

日本に核が落とされ継戦能力を失ったあの時から、核というのは魅力的な選択肢となりました。

戦争時であれば戦局を一気に変えてしまうわけです。自国で使えば国を失い、敵国で使えば戦力の大幅な低下あるいは戦意の喪失にまで至ります。もちろん敵国を地図上から消し去ることも可能です。

しかし今の時代、世界中に核兵器が存在しているので、どこかから発射された核に反応して迎撃や報復用の核が発射される事で地球が焦土と化してしまうのであまりメリットはありません。

もう1つの対外交渉の切り札というのが大きいでしょう。先述のように核を保有する国家に不用意に戦争という選択をするのは賢明ではありません。

どこでどう転がって自国に核が打ち込まれるか分からないからです。ですからどれだけ傍若無人な振る舞いを行う国家であっても核保有国とは交渉のテーブルを持つか、あるいは経済的な制裁といったものに留めてしかも慎重に様子を見ないといけなくなります。

核という名前の人類を滅亡させる恐怖を使って国際社会での重要度を飛躍的に高める事が出来るわけです。

滅びるかもしれないのにわざわざ挑発して攻撃してくる国が出現する可能性も低くなります。これが核兵器が最高の防衛策であるとされる所以です。

もちろん核は道具ですから使わない選択肢もあります。スイスが良い例ですが、その為に強力な軍隊を有するという選択をしています。

武装と核を嫌う日本では、そもそも核を嫌っても他の選択を選べないという矛盾を抱えています。

まとめます

アーティストのオシャレ感やらファッションやら演出なんかに目くじらを立ててもしゃーないでしょう。

非核三原則はそういう意味じゃあ無いはずですよ。

もちろんそのアーティスト自身が「日本を再び核の炎で浄化してやんよ」とか言ってるんだったら問題ですけど。

まあ今回声高に批判を叫んだヒトはまず海外のロックバンドであるフォールアウト ボーイに批判を浴びせる事から始めましょうね。

「何をバカな事を」って思うでしょう?  つまり、それだけバカらしく幼稚な不謹慎狩りだという事ですよ。

最後まで読んでいただき、いつもありがとうございます。










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