型にはめようとする者と型にはまろうとする者。型にはまれない者を淘汰する日本社会




おはようございます。リンさんです。

いわゆる英語などの第2言語と呼ばれるものがてんでダメです。なんとなく理解できるけど正解かどうか分からないので不安なのかもしれません。

それでも何とか文面を読み解こうと努力はするものの、結局は正解が理解できない為に次に繋がるものへとなっていきません。

活きた英語体験が大事なんだとするならば完全に死んだ英語体験です。もしかしたら干からびている可能性すらあります。

学びとはやはり「必要だな」と感じる瞬間を若い時期にどれだけ沢山経験できるかにかかっているな、なんて思います。

自分の器ではなく周囲から思われている型で物事を考えるのはヒエラルキーに所属したいという病かもしれない

人間関係とは意外にもシンプルなものです。少なくとも必要以上に悩む事は無いくらいのものであると言えます。

人間関係の基本とは、相手と自分という立ち位置の異なる間で交換される情報や価値であると言えますね。

つまり相手に、少し期待している、好きになるかもしれない、嫌いかもしれないなどの感情を抱き、その結果として相手への態度を決めるわけです。

しかし、現代社会はそういった個人が判断できるキャパシティをはるかに超えた人間関係を処理しなくてはいけなくなっています。

個人の判断では立ち行かなくなってきたので、社会は新しい基準を設ける必要がありました。

しかしそれは個人の感情を殺す作用をもたらし、今では個人よりも重要な判断基準であるとまで盲信されています。

それがヒトの社会におけるヒエラルキーの存在です。

よく海外の青春ドラマなんかで、マッチョで明るい体育会系のアメフト野郎なんかがヒエラルキーのトップに君臨している様を揶揄するものがありますが、日本ではそういった学生時代に作られた階級を社会にぶっ込んでくるヒトは多いわけです。

こういった階級の中には年功序列、リア充優先、体育会系礼賛など様々なものがありますし、それが上手く機能する場面もありました。

しかし、そういった階級の中に残る人材が劣化していくにつれて階級そのものも劣化していくようになります。

問題意識として非常に大きくなっている感はある、この階級制社会ですが、今でも存続はしているわけです。

では何故、こういった階級が存続できるのかと言うと、個人の責任を負うリスクが低いからと言えます。

階級社会では責任の所在は基本的にトップにあります。それは会社に所属する個人が勝手に発信したものであっても、そうなります。

今ではその責任の所在も中間管理職と呼ばれるヒトに押し付けられるくらいに劣化していますが、基本的に個人の責任が無いというのが大きな理由になります。

また所属する事で「所属しているヒト」と「所属していないヒト」という単純な分け方で人間関係を構築できるようになります。

 これは思考停止を助長しますが、日本の労働とは基本的に肉体でも頭脳でもチームワークなどのマネジメントとは程遠い単純労働ですから思考が邪魔になります。

どこの企業でも似たような構図になると思いますが、仕事の出来るヒトと出来ないヒト、仲間の範疇に入るヒトと入らないヒト、社員とそうじゃない従業員などの分け方がされてしまうわけです。

そんな中で階級を維持する為にモジモジ色々やっているせいで生産性が低いわけです。

価値観を共有し新しい価値を創造できないという意味で日本の労働環境は単純労働者の集まりだと言えます。

そういった労働環境は限界を迎えています。

若者は元気一杯に労働に明け暮れるという妄執を捨て切れないオジサンと、社会にノーを突きつけているのに何のリアクションも無い事に絶望する若者と、そんな社会に慣れてしまい新たな階級社会の担い手になってしまった社会人で溢れた日本は閉塞感に押しつぶされそうになっています。

時代による変化を多くの老人たちが受け入れられない社会が経済的に失敗するという見本として日本は世界から認知されています。

外に向く、内に向くという以前にまずは自分自身と向き合う必要があります。

どこかに所属する事で得られる安心というものが、そもそも幻想になってしまっているのですから。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。










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