共感する心という言葉に対して思う割とどうでもいい話




ちわっす。リンさんです。

日常を過ごす中で時々違和感を感じる事があります。もちろんそれはリンさんが持つ常識の物差しから考えるとおかしいと思うこと、という意味ですけどね。

今回はそんな中でも最近本当によく感じるようになった類の違和感のお話。皆さま、共感してくる相手にどんな感情を抱きますか?

ヒトが互いに共感し協調しあう精神は素晴らしいが、それを最悪の形で利用するおバカさんはどうにかならぬものか?

ヒトは共感し合う生き物だと思います。程度の差はそれこそ存在するでしょうが、ヒトの言っている事を素晴らしいと思ったりした事は誰にでもあるんじゃないでしょうか?

その共感が相乗効果を生み素晴らしい言葉は素晴らしい精神を作り上げます。共感の規模が大きくなればそれは大きなうねりとなり時代すら変えてしまうエネルギーになるわけですねー。

しかしまあ今回はリンさんの独白回ですから当然の如く目的は共感の素晴らしい効果効能を謳う健全なものではありません。劣化した個人の劣化した脳みそで考える共感を使った自己弁護集団のお話。そしてそれはリンさんも例外ではなく誰でもそうなんだという現実のお話です。

共感はヒトとヒトが協調し合える事を意味する素晴らしい心の働きです

まず共感とは何でしょうか? 日本語しか話せないリンさんの理解するところの共感は以下の2つの意味を持っています。

  1. 相手の置かれた立場や状況を自分に置き換えて考え、その結果として相手とその気持ちを分かち合えること
  2. 相手の置かれた立場や状況にもし自分がなったらと考えて、その結果として自分の気持ちが相手の気持ちに近くなること

1と2の違いは1が「相手の立場になって考える事」で2が「相手の立場になった自分を想像する事」くらいのものですが、それでも明確な違いだと思います。

1は非常に日本的と言いますか、自分ではなく相手の立場になる事がポイントです。つまり考え方や価値観を自分に合わせるのではなく、相手がどういう考えでその結果どう思っているのかを理解しようとする心だということです。

1がリンさんの思う素晴らしい共感です。

ちなみに2は相手の立場や状況といったものが自分に降りかかってきたらという想像から相手のことを考える心の働きです。結果として似たような気持ちになるかもしれませんが、それは共感でもなければ理解でもなくただただ同情です。

相手を下に見ていないと相手が陥った災難に対して「自分に降りかかったら嫌だな、可哀想に」とはなりませんからね。

素晴らしい心の働きだという部分だけを利用し、自分に都合の良い共感を押し付けてヒトを支配しようとする

皆さんの周りに愚痴を言うと「分かる分かる」「でもね……」と直ぐに言ってくれる優しいヒトはいますか?

そういうヒトは大事にしましょうね。では、誰のどのような言い分にも「分かる分かる」「私もそう」と言っている優しそうなヒトいませんか?

そういうヒトは注意しましょう。誰にでも言っているどころかその愚痴を収集して不特定多数に拡散している可能性すらありますから。

共感は非常に強い武器となります。相手の心へ一気に踏み込める手段となるからです。この武器としての側面だけを使って相手の信用を得た上で、自分に都合の良い事実を相手へ刷り込み同情集団を形成する手法があります。

その時吹き込む事実は真実である必要性すらありません。そして一旦引き込んでしまえば相手は抜けられません。だって自分から相手の気持ちに共感を示したからだと思い込んでいるから。

こういう集団の結束は酷いものです。1番大きなグループから更に共感し合える愚痴を細分化しいくつかのグループに分かれていきます。最終的に1番最初に作り上げた本体に対しての愚痴をこぼして共感し合うなんて小集団も形成されて何がしたいのか分かりません。

共感を使って相手の言葉をカツアゲしていく問題

共感はそもそも共感出来なきゃ放っておけばいい類のものです。相手の立場への理解が必要になる場合の手段として使われるものであるわけですが、日本では日常的に相手の立場に立つ心情がある国民性により、それが暴走していると思われます。

何で暴走かというと相手の立場を思いやる心が共感であるという考えから、弱い相手には共感を示さなければならないとする強迫的観念へと思考が劣化しているからだとリンさんは考えます。

例えば「最近ちょっと太っちゃって……」(この場合の最近何ちゃらという言葉は何でも良い)とかいう話を聞くとリンさんは「そうやね。気をつけんとな。そういうメンタルになりやすいのが弱点ちゃうの?」と言い共感します。

しかしこれは常識的、一般的に共感ではありません。常識的な共感は「そんなことないよー」です。この言葉が実にたくさんカツアゲされているのを目にします。

理解し合える友より、答えを探しあえる仲間が良い

一体いつから共感という機能を使って弱い立場を強調し同情を誘ったり、あるいは弱い立場に相手を陥らせ強い言葉を突きつけたりするようになったのでしょうか?

そんな事を考え出すと共感によって得られる友達よりも、共感の先に意見のある仲間と意見を交わしているほうがずっと建設的だなと考えてしまいます。

仲のよさは心まで浸透しませんが、理解の深さは心にまで及ぶからです。何だか書いていて途中から南海キャンディースの山ちゃんみたいだなと思いましたが、気にしないようにしました。

最後まで読んでいただきありがとうございます。










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