人生において労働はどんな役割を持つのか?




おはようございます。リンさんです。

7月も終わりですね~。今年ほど異常気象を認識した年も無いんじゃないのかと言うくらいに、今月の天候は異常でした。集中豪雨による災害、熱波による熱中症の拡大など近年無かったような身の危険を感じる気候が続きました。

湿潤な気候の日本で気温が爆発的に上昇すると危険だというのが如実に理解できます。

かつては長屋のような家屋で風通しを良くする事で湿度を管理し、河川周辺は氾濫する方向を調整し住宅を建てていたわけですが、住宅の密集化と気密化の影響でそういった気候風土に合わせた建築様式というものは廃れてしまっています。

そもそもこれほど異常気象になってしまっている状態で昔の住宅機能があれば大丈夫かどうかというのは最初に疑問として残りますが、それでも自然を征服するのではなく自然と一緒に管理する方式の住宅というのは再考の価値があるかもしれないとは思います。

人生と労働の関係性が逆転していないか?

人生を謳歌する。人生を豊かにする。人生を自分の意思で生きる。

これらのような言葉はスピリチュアルに聞こえてしまうものです。実際、こういった言葉をどれだけ尊敬する相手が言ったとしても、まあピンとは来ないでしょうね。

しかし実際の所、日本では人生を自分の意思で生きているヒトは少ないものです。これは人生と労働の考え方に起因していると思われるので、今回はその人生を生きる事と労働をする事を考察していこうと思います。

まず人生とは何でしょうか、と書こうかなと思いましたがそれもかなりスピリチュアルですね~。まあ人生とはヒトとして生きる事だと考えて下さい。日本ではこの人生を生きる事と労働が密接に関わってきます。

キリスト教圏の海外における労働とは罰に当たる行為ですが、日本では労働は美徳です。つまり労働=美徳の考え方により、人生=労働=美徳であるという考え方になっているわけです。

今ではこの考え方がおかしいと思う若者も増えてきましたが、働き方改革や労働者の環境を整備する側の人間に比率としてオジサンが多いので、中々若者の考える労働とオジサンの考える労働はイコールになりません。

オジサンにとって労働はいつまで経っても美徳であり、それを減らす事は道徳的におかしいし、労働力確保の点においてもネックポイントだという考え方だからです。

しかし労働力を確保する事と、長時間労働を行う事や低賃金で使い倒す事は同義のようにされていますが本来は全く異なる考え方です。

従業員の給与水準を高く保ち、仕事に必要な人員は徹底的に確保する事が企業に求められる道徳観なわけですが、日本では個人でも企業でも同様に病的なまでの金銭的不安を抱えています。

支出を抑えるとなると給与を減らすという考え方自体が投資行動として矛盾しているわけですが、これをいきなり変えるというのは難しくなります。

会社に所属して得たキャリアやスキルはその会社でしか通用しませんし、それが大丈夫だったのは終身雇用だったからです。給与水準が低くても長時間の労働を良しとしていたのは年功序列で給与が増えていっていたからです。

現代ではその価値観が根本から覆ってしまっています。だから若者にとって働き方とは新しい価値観で話すべき事であり、過去の水準で物事を推し量るオジサン集団が考える働き方では不十分になってしまいます。

人生観が変わっていく時代において変わらないオジサンが圧倒的に多い社会で、権力も何も持たない若者は労働力として教育されるか、人生の夢を求めてオジサンに挫折させられるかを強いられているわけです。

だから、今の日本では人生を謳歌しているヒトは少ないという結論になるわけです。つまり人生が労働を基準にして語られているという事です。

真面目に働けなどと言われてしまうような考え方ですが、ではその言葉を吐くオジサンのように真面目に働いてお金に不自由なく自分らしい人生を生きていけるのかと聞けば、それはそのオジサンを見れば「んなわけない」と感じるのが明白なわけです。

労働から人生を取り戻す

自分の未来をオジサンに見る日本では将来はジリ貧であるという事が残酷なほどに理解出来てしまいます。

その中でも若者は新しい価値観を見つけ、新しい生き方をする事を求めてきました。労働というものから人生を開放するという価値観です。

これは働かないという価値観ではありませんし、今の労働をバカにするものでもありません。ただし、労働というものにおける美徳や道徳観といったものは徹底的に否定される事になります。

新しい価値観の中で労働がどのような位置に存在しているのかを考察していくと、食事というものを例に挙げる事が出来ます。

人生とは食事において何を指しているのでしょうか?

これは主食やメインディッシュというものに例える事が出来ます。自分がヒトとして生きる為に軸となるものですから、こういった位置付けになるわけですね。簡単に大好物でも構いませんし、未来を夢見ている若者であれば人生は食事における好物だといっても過言ではなくなるでしょう。

では、労働とは食事におけるどのような位置付けなんでしょうか?

これはスパイスや調味料であると言えます。人生という食事を美味しく、面白くしてくれるものという位置付けですね。

ではこれを現代の過重労働社会に合わせて考えると、人生という大好物に横から知らないオジサンが、このスパイスや調味料を入れて食うと美味いから食ってみろと大量のスパイスや調味料を勝手に振りかけられている状況な訳です。

中々クレイジーな状況ですが、そのスパイスまみれの大好物が更に美味しくなってしまうヒトだっています。そういったヒトは労働という名前のスパイスが楽しすぎて味付けの濃い食事を好むようになっていくわけです。

しかし食事における味付けの濃い食事を続ける事で健康を害していく事が間違いない事実であるように、労働だって楽しいからと言って自分を酷使し続けていればダメになっていくわけです。

そこでヒトは出世して激しい労働からは身を引いていきます。しかし味付けの濃い食事が忘れられないので、後輩が出来た時はその味付けの濃さを相手に押し付けてしまうわけです。

というわけで人生という大好物そのものの味を楽しみたいと思い、スパイスや調味料という名の労働にそれほど価値を持たない若者は、社会に出る際に味付けの濃い食事に遭遇する事になります。

味付けの濃い食事に慣らされていませんか? 味付けの濃い食事に嫌気が差していませんか? それとも、誰かに味付けの濃い食事こそ素晴らしいと押し付けていませんか?

働かなくていいわけではありませんが、働く事の意義と意味を再考する必要があります。

最後まで読んでいただき、いつもありがとうございます。










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