日本の諸問題 介護を強いる老害




おはようございます。リンさんです。

ヒトは自分の見たいものしか見ようとしません。世界が多様だという論調は正にヒトの数だけ見える世界が異なるからであると言えます。

そんなわけですからヒトは自分の思っている事と同じような事を思っている相手に大きな共感を寄せます。これは自分の願う人間関係を構築する為の重要な判断基準であるという面を持つ一方で、相手を自分の思い通りにする為の手段にも成り得るものです。

モデルが推奨する化粧品とか共感を用いたビジネスってやつは色々あるわけです。そういった勘違いとも言うべき感覚がヒトの社会を円滑に回す構成要素の1つですから、それを否定したところで何も変わりはしません。

この共感というやつが長年続いて世代単位で引き継がれていくとそれは常識となります。つまり常識とは培われたヒトの知恵ではなく、社会という構造を維持していくための手段に過ぎないわけです。常識に縛られて、自分自身の事を考える事が出来る機会を失ってしまっては元も子もありません。

そういった意味で常識は疑うべきですし、無為に妄信するべきではないと思います。

介護と貧困は支配によって強制されている

介護職人員の不足、家族介護の崩壊、老々介護。日本だけでなく先進諸国の高齢化は止まらずそれに伴う介護需要が追いついていない状況です。

この問題の根幹を述べるのであれば、寿命が長くなりすぎた事が上げられます。寿命延長と同時進行で健康寿命が延びなかった事で介護の必要性は増加し、その増加に対して供給が追いつかなかったというわけです。

メタボリックシンドローム、ロコモティブシンドローム、フレイルといった問題が寿命延長によって起こり、更に寿命延長は老化現象の増加を招き認知症やアルツハイマー症などの病気発症のリスクも増大させます。

つまり根本的な原因を突き詰めていくと、介護最大の問題は老化と共に増大する病気のリスクと身体機能や認知機能の低下という事になります。健康的であるならば老人であろうと介護でずっとヒトがついている必要性も無いわけです。

これらは介護についての問題を抱えている国であるならどこにでも共通する問題です。しかし日本ではこの問題を更に深刻化させる貧困という病が連鎖しています。

自己反省を強いる事で相手への支配とする思考が蔓延する日本では、貧困というひと言に教育、思想、思考、自己判断といった全ての要素が含まれます。

自己反省を行うべきだという教育は何がいけないのかというとそれが相手への否定から始まる所にあります。相手を否定し支配するやり方とは、実に効率よく相手を屈服させる事が出来ます。それはこの教育が軍隊にも採用されている点から明らかでしょう。

反省をさせるのに、その内容を否定する。そして更に反省させ否定するの無限ループにより、ヒトは思考を奪われていきます。この方法を分かりにくくしたものが現代日本の教育です。

日本人の美徳や品性といった言葉で、相手を支配し自分の思い通りに動く人材を作る思惑を隠しています。しかもこの美徳や品性とは明治維新以降、世界大戦後までに徹底的に破壊されてしまい、最早日本の持っていた始原の美徳など存在しないのです。

この教育最大の問題点は蓄積型の貧困である点です。こういった体制が続けばそれが常識となり、更にその常識に疑問を感じなくなる事で思考が停止し、知的好奇心が死ぬ事で更に貧困は加速します。

では何故それを問題視して解決しようとしないのか? それには2つの理由があります。

貧困解決を阻む理由① そもそも日本人の教養層が薄くなり過ぎた

当たり前の話ですがお勉強と教養とは全く異なる概念です。この2つが異なるからこそ、良い大学を出た人材であっても傑物と凡人が別れるようになっています。

そして日本は時間を経るにつれお勉強は出来ても教養の無い人材が溢れるようになります。そうなると何が起こるのか? 教養の無い層とある層の二極化が進んでいきます。

二極化が進むとどうなるのか? 教養のあるヒトの住む世界と教養の無いヒトの住む世界が別れるようになります。こうなると教養の無いヒトが教養を得るのは難しくなります。

ヒトは自分の見ている世界しか認識しません。自分が望まない世界を見ても拒絶するか無視するしか手段が無くなってしまいます。そうなると時間と世代をかける毎に教養としての常識が劣化し続ける日本で不幸が引き起こされるようになります。

会社という組織の中で起こる不幸が教育の不備です。教養の無い世代が責任者として君臨すれば、それだけ無責任な経営をする可能性が大きくなります。従業員を大切にしないという事が問題になって久しいですが、それらに共通する原因がこの知的教養の衰退にあると言えます。

貧困解決を阻む理由② 神輿もそれを担ぐモノも愚かなほど管理しやすい

政治家が愚かで、官僚がそれをいい事に好き放題しているという構図は問題となっていますね。こういった構図はどこにでも見られるもので、上も下も教養が無い方が扱いやすいわけです。

これがうまくいかなくなって誰が何をやっても糾弾されるような時代になったわけですが、これは教養があるとされる世代を含めた全ての世代が劣化している事に起因します。

教養があってもそこに継続的な思考が存在しない事で、誰かに反省を促して自分の思い通りにしたいという単純欲求だけを仕込まれてきた世代が暴走しています。

不思議な話ですが、日本では内省にさしたる価値は無いわけです。それよりも相手に反省させる事に価値があると言う考えだけが病的に広まっています。

出来なければ相手が悪い。出来なかった理由は出来なかった側にだけ存在する。こういった現実逃避として認識されるような手段が、現実を侵食しているのが今の日本だと言えます。

だから誰でも彼でも誰かを糾弾する事を目的としており、それが世代を問わないわけです。誰も自分の世代の価値観がおかしいと考えたりしません。おかしいのは自分以外の価値観であり、自分以外の持っている考えであると認識します。

そして、そういう風に単純な思考を繰り返すヒトによって上も下も埋まっている状況の方が、中でそれらを管理する事が容易なわけです。

問題解決できない老害達に使い捨てられる若者達

主体はいつだって当てになりません。自分の考えている事など、叩き込まれた常識から導き出された勘違いに過ぎません。常識がいつでも正しくないというのは分かっているのに、ヒトは自分の持っている常識の正誤を疑う事はしません。

客体は常に他人の都合に左右されます。自分を客観的に見るというのは誰かの常識で物事を判断する事です。そしてそういった他人の常識とは相手にとって都合の良い事実でしかないわけです。

同じものを見ているんだよと言って相手を容易に支配する事が出来ます。そしてそれを効率よくしたやり方が世に溢れる常識的考えです。

常識が無ければ社会は成り立ちません。誰もが思考する社会というのは、どれだけキレイな言葉で飾っても支配者の存在する社会では邪魔な社会でしかないからです。つまり常識的な支配の強い社会とは、より支配を感じさせずに効率よく行える社会という事になります。そしてその支配とは、単純に若者に向けられます。

その目的は要するにオジサン達の介護です。問題解決能力の無くなったオジサンという種が、自分達の老後の為だけに若者を使い捨てようとしています。

若者が老人への敬意を持たなくなったというのは確かに問題です。そこで教養の高い老人とそうでない老人を区別しなければ、やっている事は今までのオジサン達がやっている支配と変わりません。しかしこういった若者がいるという事は、オジサン達にとって都合の良い支配をしてきたという行為への反抗に他なりません。

ですから、マナーの悪い自己中心的な老人が増えてきたというのはその証明と言えます。現実の社会が老人を敬わなくなってきた事は事実です。そしてその変化に気付かなかった老人の暴走が目立つという結論が起こってきたわけです。

これは時代の変化として受け入れるべきものです。しかし今の日本のように教養が薄くなった場合、これがどのような結論を出すのかは心配の種でもあります。

反感だけで老人を否定するのではなく、新しい社会を構築する手法として前世代の常識を問い直す事が必要とされています。

最後まで読んでいただき、いつもありがとうございます。










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