日本伝統の女人禁制とはいつ生まれたのか? それは単なる支配の礎となる思考に過ぎないのかもしれない。




おはようございます。リンさんです。

日本伝統の文化である女人禁制に関しての議論が盛り上がっていますね。しかしまあ議論が盛り上がるのっていつでもそうですが、オジサンの不用意な発言なんですよね。

社会の要職を占めているオジサンの割合が大きいので仕方ないっちゃ仕方ないんでしょうけど、いくらなんでも不適切な発言が多すぎやしませんかね。とか何とか言いつつ、一時の道徳に身を任せて正義を語ると物事の正誤もいずれ分からなくなってしまうのでこれくらいにしておきます。

今聞いた感覚で良い悪いなんてのは井戸端でする話であってマスコミがする話ではありません。大衆じみた意見を大衆に述べているという時点でマスコミの存在意義が怪しいと思ってしまうのですが、そこんとこも心配です。

何が言いたいのかというと、こういった伝統に関して議論を行う時はそれなりに知識を仕入れないといけないという事です。「常識的にこうでしょ?」という所まで高まった物事というのは意外に勘違いに溢れています。

問題提起 → 白熱した議論 → 専門論を無視していく → 一般論にすり替わる → お茶が濁る

という段階を踏んできた数々の議論に対してちょっとは勉強しなきゃいけません。少なくともこういった議論が当たり前になって政治家すらこの方式を採用している国なんて将来かなりヤバめでしょう。

議論を尽くすとは、物事の本質を知るという事です。その本質の理解がヒトによって異なる為に議論が行えるわけですから。これを理解せずに多数がそう思うというだけで物事を決めるのは危険です。

社会通年はこういったもので決めても問題ないでしょうが、議論を行いその結果を流布するようなものがこの方式ではあまりにもおバカですから。結論を語らなければならないのに希望を語っているわけですね。宇宙人を自称する政治家さんなどもこういった方式で演説していましたね。

女人禁制は支配の礎

土俵上で倒れた市長を救う為に女性が土俵に上った際、「女性は土俵から降りて下さい」というアナウンスが流れた事で女人禁制という日本の伝統に対して議論が巻き起こっています。

多方面からの意見がありますが、リンさんはこの女人禁制がどういう目的で存在しているのかを議論の中心に据えてみたいと思います。というのも女人禁制の是非を問う議論のはずなのに、自己主張ばかりで議論を行っていないと思うからです。

まあおそらく最終的には「女人禁制は時代の風潮に合わないから、そういった伝統のある文化も女性進出が進んでいくでしょう」みたいな議論で終わる事でしょう。「そら当たり前やがな」という感想しか出てきません。読書感想文で「すごいな~」「立派だな~」とか書いているのと一緒です。

そうではなく女人禁制が制度化され運用された目的を知る事が大事です。全国津々浦々全ての地域で相撲や神道は存在していたでしょうが、その中に最初から女人禁制というシステムが存在していたのかどうかを知らなきゃいけません。

これを考える時に近代で日本が最も変わらなければいけない時代に焦点を当てます。それは明治時代です。

実は日本の文化は明治時代以降か以前かでかなり異なります。明治時代に伝統と名を付けられ大切に保存しなければいけないと定義されたからこそ、伝統という考え方があるからです。それまでは歌舞伎や相撲、神道など地域差が大きいものでした。それこそ役者でもないようなヒトがやってもいいし、相撲なんて子どもの遊びでした。

風習なんてレベルではなく日常生活の一部だったわけです。となると伝統文化として明治時代に制定する時に決めるべきことは大枠という事になりますね。そして時代の常ですが、こういった定義は支配者がより支配しやすいように作られるものです。

明治時代というと文明の西洋化です。文明の西洋化に邪魔になるであろう日本の伝統文化を支配者が定義してしまう事で好き勝手に出来なくさせる事が目的の1つだったのでしょう。

そして、こういった日本の伝統文化が法整備された段階で「女人禁制」は生まれています。地域差は確かに大きいものですが、集団の中での日常生活におけるコミュニケーション手段であった伝統文化には女人禁制などありませんでした。

男子だけ参加する種目とか女子だけ参加する種目とかそういった違いだけです。それはそういったルールであって、何が何でも女人禁制というものではなかったわけです。

では何で近代化を進める段階で女人禁制、つまり女性の社会参加を制限する必要があったのでしょうか。近代化とは社会を2つに分けて運用する事です。小さな集団でヒトという種族の維持を行う自然的な社会と、社会を大きくしてより大きな社会と関わりを持つ資本的な社会です。

社会適応能力や社会形成能力が男性に比べて圧倒的に優れている女性は、支配者からすれば面倒な存在でした。資本的な社会は富裕層が儲かる仕組みにしなければ続いていきません。そうなった時、社会を独自に形成して強固なものにしてしまう女性は非常に困った存在になります。

反して男性は権利をある程度与えていれば、社会的にかなり大損している状態であっても気付きません。支配者はここに目をつけました。同じ支配を行うのであれば「バカ」の方がずっといいのです。

しかし女性を社会から放すのであれば資本的社会から引き離すだけでいいのではないでしょうか。実はここにカラクリがあります。つまり日本の伝統文化として女人禁制というものがあるんだ。だから日本で社会を形成するのはずっと昔から男性が主体だったんだよと思い込みを持たせたわけです。

まあこれも皮肉な話です。実際その時代が不幸だったかどうかはその時代のヒトに聞かなきゃ分かりませんが、時代の流れに翻弄されているのは客観的にいつも男性です。社会の流れに翻弄されるのは女性なんですが、支配者のルールは男性が作ったもんですから、そうなるのは必然なんですね。

女性とケガレ

女性には月のものがあり、出血を行うのでケガレがある。だから神事には相応しくないというのも明確な根拠がありません。そもそもケガレを祓って神事を全うするというのは神道の基本的な考え方です。それは男性でも女性でも変わりません。

そしてケガレとは血を指します。神道の儀式とはカミとの交信です。カミは血に触れると力を無くしてしまうという考え方がある為に血を忌みます。しかしケガレとは儀式の前に必ず祓うものですから、あまり深く考えなくていいものです。

神道でなくとも相撲でも同様です。お相撲さんが何故あれほど土俵に塩をまいているのかきちんと考えた事が無いから、女性 = ケガレ という考え方に固執してしまいます。正しくはお相撲さんが塩をまく事でケガレを祓ってくれているのです。

そして何よりも厳密な神道で厳格な儀式を行っているのは日本でただお1人。天皇陛下だけです。それ以外の神道は定義の差こそあれある程度柔軟な思考で儀式を執り行っています。お笑い芸人の狩野英考さんが資格を取れるくらいですからね。

つまり伝統文化としての女人禁制は存在しません。あったとしてもごく一部です。しかも日本の伝統文化で最も厳格な神事である天皇陛下のご公務ですら儀式の中に一部存在するというだけで、女性は絶対にダメなんてもんではありません。儀式の中に存在するというのと社会通念上ダメというのは同一線上では語れません。

「そういうもんもあるけど比較的自由だよ」「儀式は厳格にしないといけないけど一部を否定するような事はしない」というのが日本古来の伝統です。こういった考え方の中に「性に対して奔放」とかまあ中々凄い文化が存在していた為に近代化の邪魔になるという観点から削られてしまったわけです。

そのついでに支配を強める為に女性を外した方がいいんじゃね? って感じで女人禁制が伝統文化みたいな扱いを受けてしまったわけです。

明治時代以降とそれ以前でそんなに文化の違いがあるんかいな? と疑問に思うかもしれないので1つの例を提示しておきますね。またしても下ネタなんですけど。

江戸時代には春画というものがありました。今で言うとエロ本です。しかしこの春画、女性の乳房の描写が全くと言っていいほどありません。局部描写だけなんです。つまり江戸時代のエロティシズムに乳房は含まれていなかったのです。

ほら。かなり文化が違うでしょ?

まとめます

女人禁制はオジサンが自分達だけで社会を支配して富を得たいと画策した結果生まれたものです。伝統文化とまぜこぜにしてしまっているので伝統が問題視されていますが、そもそも古い時代からの伝統に女人禁制はありません。

相撲も歌舞伎も神道も行為自体が問題のあるものではありません。制度的な運用が問題になっているわけでもありません。

最大の問題は、常識的に伝統文化は女人禁制だと思い込まされている事です。そしてそういった事を声高に恥ずかしげも無く言えるのはオジサンです。

最近になって、時代の価値観が変わり始めたことでオジサンが目立ち始めてきました。思った以上にどの世代よりもイタい連中だとバレてきたからです。

全く関係ない話ですが、伝統が支配者にとって都合が良い曲解であるならばそれは天皇陛下にも言えることなのでしょうか? 答えは「そうじゃない」という事がこの国が抱える問題のように思います。

伝統と、都合よく切り取られ文化と名づけられたもの。それの区別はつけていきたいものです。最後まで読んでいただき、いつもありがとうございます。










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