1030運動は食いハラなのか?




おはようございます。リンさんです。

Carbは大事、Fiberがあるからと考えると炭水化物全体が大事になるような言い方になります。この考え方だと糖質自体を摂取する事も大事だという事になります。

しかしCarbの中でもFiberが大事となると糖質が大事とはなりません。

繊維質で筋張っていて、それでいて期待を裏切らずに美味しくない部位を食べやすくするのには甘い方が良いのかもしれませんが、甘さを求める余りに繊維質やその他栄養素を減らしてでも甘くしてきたのが人類の品種改良の歴史です。

さて、そう考えると万が一、糖質が大事なものだとしても果たして現代はどれだけ摂取過多になっているのでしょうかね。

こう考えると糖質制限とは方法論の1つでしかなく、どうすれば人の手つまり人為の関わっていない食物を適量(これが1番難しい)摂取できるのかにかかっているのではないでしょうか。

とはいうものの現代は糖質摂取過多であるという条件の下だと、やはり糖質制限が最も簡単な解となってしまうのですが。

食いハラとはつまり食に対する認識の甘さを最終消費者にだけ押し付けているわけである

食べる、という行為はヒトの生において欠かせないものになっています。重要視するあまりに可笑しな方向へ奔っているのが大きな理由です。

つまり現代において食べるという行為の常識的価値観が非常に大きくなっているとも言え、それは裏を返せば食べない事に対してネガティブな感情があるという事でもあります。

ここらで情報を整理すると食べる食べないというのは個人の意思です。その結果、どうなるのかも個人の意思によるものであり、そこに自由な自分自身の意思が存在するからこそ意味があるわけです。

ガンジーのハンガーストライキに意味があったのはそこに意思があったからだと考えられます。

少々脱線するとガンジーの前にインド解放の為に戦った人々がいたからこそガンジーの示す意思に心打たれたヒトが増えたわけですが、それは別の話。

話を元に戻しますと、つまり食べる事が自由な意思決定によって為されるものであるならば、それに干渉するのが時代遅れなハラスメントであると思われてしまうのが現代なわけですね。

それは食いハラと呼ばれるもので、学校給食からスポーツ界にまで蔓延している問題でもあります。

そもそも個人の許容量は様々であるという認識が叫ばれている現在において画一的な食事の質と量を押し付けている時点でおかしいわけです。

「それが普通」の一般的なヒトが大多数を占めているので思考は当然停止してしまいます。

問題提起をすれば、何でそんな事をいちいち言うのかと面倒くさがられるかもしくは危ないヒトみたいな扱いを受けたりもします。

多様性を認められないという事はヒトの個性を許容できない社会だということです。

そしてそういった社会は個人を許容しない代わりに、集団を管理するための方法論が成立します。

食べられないのであれば食べられない方が悪いとまぁこういった具合です。

1030運動は集団管理の極み

食べる事、食べられる量に個人差がある事を考えた時に問題として上がってくるのが食料廃棄の問題です。

食べられずに捨てられる食料を減らしましょうという問題提起ですが、その問題に行き当たった際、実際にどう考えるのでしょうか?

個人差を許容しなければ問題解決は「残さず食べましょう、もったいないから」の一点張りです。

答えとしては非常にシンプルです。しかし問題に対する適応力が低い故に万能ではありません。

個人差を許容する考え方に立つと問題解決へのプロセスは増えてしまいます。

個人の食べられる量を最初に調べ上げてから食事を提供しなければ、食料廃棄を減らす事が出来ません。

面倒で手間が増えすぎてしますので、誰も手をつけないというのが現実ですし、更に厳しい事に前者の個人を考慮しない方法論の方がまかり通ります。

言った方ではなく、受けた方の手間と責任に委ねるから楽なわけです。

そういった楽な手法に1030運動という食料廃棄を減らしましょうという運動があります。

会食などの集まりの際に開始10分と閉会前30分は自分の席について食事をしましょう。そうやって食料廃棄を無くしましょうって無いようです。

まず、前提として食べなければいけないという感覚があるからこういった解決法を提唱したりします。

そもそも会食などの食事など寄贈された花と同じくらいの意味合いしかないのですから、食べましょうで解決する話ではありません。

食事に関して自由意志を認めない風潮にあるにも関わらず、食料廃棄などの問題には個人の意思が大事ですよと丸投げしているわけです。

これでは二枚舌あるいはダブルスタンダードと捉えられてしまいますね。

また最終的に解決策が食べる事なわけですから、会食の食料廃棄に真剣に取り組もうと思ったヒトたちは自分の責任の上で無理してでも食べないといけなくなります。

もちろん現実には食べないヒトが大半になるわけですし、そこに厳密なハラスメントは存在しません。

ただ、問題提起と問題解決の間にある矛盾によって不信感を持たれてしまうだけです。

出来るだけそういった事態は避けた方が賢明ですし、矛盾を内包する事を許容する事と、理論的に突き詰めずに矛盾を残してしまう事は別問題です。

モッタイナイから残さないのではなく、モッタイナイから残らないようにする必要が出てきている気がします。

最後まで読んでいただき、いつもありがとうござきます。










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