マイノリティと議論への誤解




おはようございます。リンさんです。

何故、実践できないのか? 突き詰めればたったそれだけの話になる糖質制限の実践ですが、中々に奥深いものがあります。出来ない理由を探して躍起になっているヒトを除けば、実践できない理由というのは実はもの凄く重大です。

この問題は育児がうまく出来ないのような普遍的な疑問を抱えています。雑音が多過ぎて最初からつまづいてしまったり、実際に経験してみると勝手が違いすぎて戸惑ってしまうようなものです。

糖質制限の実践において困難な理由の1つに貧乏というのがあります。それもただの貧乏ではありません。つまり「それ以外の選択が無いように思い込んでしまうほどの貧乏」であるという事です。

価値観を変える事が出来ないのではなく、それ以外の選択肢を知らないし、知ろうともしないという問題です。割と軽視されがちですが貧困と健康が反比例しているのであれば、これは必ず問題になりそうだなと感じています。

マジョリティなのに偉そうで、議論が出来ないのに大人をやっている

いわゆる日本の抱えている貧困の問題とは常識的に浸透してしまっている為に、他の国家と比べても深刻度は非常に重篤なものであると言えます。これの怖いところは健康格差に気付き糖質制限などの最新の生化学と栄養学に基づいたものをやっている、ある意味で賢明なヒトであっても例外ではないという部分です。

健康格差には気づく機会があったけど、それ以外の問題には気付く機会が無かったというやつですね。こういった問題とは自分の立脚する位置や、何を主体として生きているのかという認識のズレによって引き起こされるものです。

顕著に現れるものには、自分が社会的なマイノリティであると気付いていないのに正義を振りかざして悦に入っていたりするものや、そもそも議論の意味も分かっていないのに議論した気になっている年齢だけ大人なオジサンなどが挙げられます。

セイゲニストと糖質世界

以前もセイゲニストが糖質主体の世界ではマイノリティであるという記事を書きましたが、それは今でも変わりません。

お米やパン、麺類を普通に食べても特に大きな問題にならない世代によって構成される社会で、セイゲニストは異端です。そこで迎合するのか、それとも自分自身を貫くのかは別として、使命に駆り立てられ何かに講義するような態度は如何なものかという感覚を持っています。

セイゲニストであれば、糖質を普及させる企業に対して文句を言うとかの行為がそれになります。講義する必要性があるのでしょうか? 嫌ならもう買わなきゃいいのです。それだけは自分の選択として行えるものですが、そこから抗議に至る神経は理解できません。

企業は利益を追求していくものです。そして糖質制限が社会的に大きな認知になった時に、そこでようやく淘汰が起こります。セイゲニストがするべきはその時の正義感で抗議をする事ではなく、糖質制限によって得た科学的思考と精神的安定を用いて社会を自分達にとって住みやすいものへと変えていくために行動する事です。

その為には自分の周りを住みやすくするところから始めるべきであって、企業は社会に貢献しなきゃいけないのに糖質を売るとは何とケシカラン事だと憤る事ではありません。その理論で攻めていくのならばセイゲニストは社会に何も貢献していないのに、誰かを糾弾しても構わないのでしょうか?

まずが周りを救う事くらいしか個人で出来ることなんて無いのです。しかしそれすらも決して簡単な道のりではありませんし。

何でもかんでも抗議するのはセイゲニストでも問題です。これは糖質世界で普通に生きるヒトでも誰でも代わりません。ただただ文句を言っているだけで、対案として何か自分自身で行動する事も無く社会を嘆いているのでは、鬱陶しいだけですから。

他人に必要以上に心を割いても結果が芳しくない時に怒りしか浮かびません。そんな事で心を必要以上に乱すのであれば自分のレベルアップに費やすべきだというのはリンさんの心の師匠の言葉です。

機能重視オジサンと共感社会の違和感

世の中は機能重視の考え方をするだけのオジサンによって面白みの無い世界になっています。機能不全を起こしているオジサンが相手にだけ機能性を求める事により悲劇が加速しています。

特に子育て、社会的自立、高齢化社会への対策などは全て老人達の老後をしっかり確保する為に今の世代を消費するような機能性を重視した社会になっていると言っても過言ではありません。

社会を前進させるには議論が必要になります。そして議論は機能と共感が両立する時に機能します。機能を重視すれば共感が追いつかず、共感を重視すれば機能が稼動しないというジレンマもありますが、それは民主主義の抱える永久の課題です。

日本で問題になっているのは、その議論以前の集団が存在している事です。それは概ね2つのグループに分けられます。1つが機能性を語る事を至上価値とした機能不全に陥ったオジサン集団で、もう1つが相手の発言を曲解し自分の結論ありきで相手を批判するオジサン集団です。

簡単に言うとどちらも持論が言いたくて仕方なく、持論の正しさだけを信じているというだけの話です。ありがたくもテレビというメディアがそういったものを議論として毎日配信してくれるおかげで若者は老人に絶望するに至りました。

本来拾うべき、声の無い集団は無視されてしまっていますが、声を上げるとあんな風にバカみたいに写るかもと思うので声を出せないという側面もあります。

こういった世代が声を上げ議論を前に進めるためには、少なくとも団塊ジュニア世代くらいまでが社会的な影響力を無くさないと厳しいというのが事実であり、そこまで待っていれば日本が機能しなくなる危険性もあるという危惧があるので、この問題は詰んでいると言えます。

しかし、こういった議論するという事がどういう事なのかを理解していなければ議論できる環境になっても何も変わりません。下手をすれば前の世代と同じ事を引き継いでしまう可能性もあります。

オジサンには期待せずに自分達の知性をレベルアップさせる事に専念する事が重要になってくるのだと思います。

最後まで読んでいただき、いつもありがとうございます。










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