勘違いを認識する事と勘違いさせられているという事




おはようございます。リンさんです。

ストレスを感じるというのは、多くが不安であったり自分の思い通りにいかない事にイライラしたりする事で起こります。オジサンだと自分の思い通りにならない相手へのストレスでダメになり、オジサン以外は関わっていく相手がいる世界で自己実現の出来ない現実にストレスを感じます。

おそらく会社や組織での飲み会に対するスタンスでもこういった違いが認識できるかと思います。オジサンは飲み会に参加しない若者に怒り、若者は関わるべき世界を勝手に広げられる事にストレスを感じています。

自分の持っている常識だけで判断する事で世界は狭くなります。しかし自己主張は出来ないと他人に世界を壊されていきます。この場合、理解力の無い老害が世界の権力を持っている側に存在しているという事が問題となっているわけで、これが日本における貧困の根源を生み出しています。

オジサンが社会の敵とされるのには当然の原因があるという事です。しかしこういったオジサン否定の論理はオジサンの耳には届きません。それは彼らが大きな声で怒鳴る事で相手にだけ反省を強いる種族だからです。

でもそんな事を言っても何の改善も進歩も起こらないのは分かりきっている事ですから、オジサンを責めても仕方ないのかもしれませんね。

世界は勘違いで構成され、支配者は勘違いを作り出しヒトを支配している

ストレスマネジメントは生きていく上で重要な手段の1つです。しかしそれを学んでいる時にストレスを感じてしまうのであればあまり意味が無いような気もします。そこで必要になってくるのがこういった手段を簡素に理解する方法です。

簡素に理解するには要素を抽出し、それを分析します。まあ面倒な手順には違いないわけですが簡略化した指標は役に立ちます。もちろん、事あるごとに指標を見直し物事を考え直す必要はあります。前提が間違っていては出てくる結果も間違ってしまいますからね。

アドラー心理学では全ての悩みは対人関係から発生すると考えられています。ヒトとの関係性から問題が発生するという考え方に基づけば、ヒトの抱えるストレスとは全て人間関係であると言えるわけです。そう考えるとヒトの悩みとはヒトの社会で生きる事で発生しているとも言えます。

という事は人間社会を形成する要素を分析すれば対人関係において重要な事柄も分かるという事です。

ヒトの社会を構成するものを分析すると分かってくるのは、ヒトの社会は勘違いによって構成されているという事です。この勘違いはいわゆる常識と呼ばれるものです。

ヒトが対人関係に問題や悩みを持つ場合、多くは相手との認識の違いにより発生します。相手の考えている事と自分の考えている事が異なる事でヒトは悩み、その違いがドンドン大きくなっていき争いへと発展します。

近代までは領土拡大の必要性が重視された為に認識の違い以外でも争いは発生していましたが、概ね対人関係の問題は認識の差であると言えます。

では常識という名前の勘違いを下にしているのに対人関係に問題が発生するのは何故なのでしょうか。それこそこの常識という名前の勘違いが誰かにとっての利益を保証し、誰かにとっては損になるという結果をもたらすからです。

勘違い① 貨幣経済

貨幣経済における勘違いとは貨幣そのものに価値があると思い込んでいる事です。そもそもモノの価値とはそれ自体が持っているものです。しかしそれでは大量の物資を生み出すようになった社会では意味を為さなくなってきました。

為政者にとっても物資が移動する事で価値が移動するよりも、価値が移動した後で物資を移動させた方が手間が減ります。為政者は貨幣の価値を保証する事で貨幣経済が広まるように支援しました。そして大量の物資を持つ事で資産とする以外に、貨幣を大量に所持する事で資産とする富裕層が現れます。

貨幣経済は為政者にとって都合が良く、それを多くもつ富裕層にとっても都合が良かったわけです。という事で貨幣経済は為政者や富裕層がシステムとしての社会をうまく動かす為に都合よく作られていったという経緯があります。

お金を生み出すシステムを理解しているから富裕層になれる可能性がある事を秘匿し、多くの労働者をお金を得る為には働かなければならないという常識で縛る事で社会を作り上げる基盤にしました。貨幣経済という概念はお金を作る者と与えられる者に分けるものです。

企業家と労働者ではお金に関する価値観は異なるので意見も大きく異なってしまいます。

勘違い② 宗教

宗教がどのように出来上がったのか? 神話として語り継がれるもの以外で考えてみます。そうすると宗教の意味合いが見えてきます。

超自然的な存在がいる事を信じていた集団の中で、それを使役する能力を持っているとされる者が人々を支配した事から始まったのだと考えられます。当然のようにカミという存在はその時代風景に沿って都合よく歪められているわけです。

ヒトの社会で生きていく為には心の拠り所が必要になるので、宗教はその役割を支配から拠り所へと変えて生きました。もともとは偉大な存在を信じさせる事で支配を効率よく行う方法でしたが、人間社会の成熟につれて目的が変わっていったものです。

一神教が差異を許さず相手を拒絶するようなものであるというのは、いわゆるヒトがそういった解釈を行っている為であって、ツールとしての宗教が過ちであるというわけではありません。しかしツールというとまた怒られてしまいますし、信仰心とは論理を語る上で微妙なものです。

勘違い③ 他者貢献のみの感情

他人の為になる事をしなさいというのは美徳として教えられるものの1つです。しかし、何故そうしなければならないのかや、それを行う為に何が必要なのかという事は教えられる事が少ないものです。大抵の場合は、その行為により相手が喜ぶ事が大事なのだと教えます。

しかし相手だけを喜ばせるような他者貢献の感情はそもそも間違っています。自分を犠牲にしてまで他人の為に尽くすというのは中々難しいものですし、それを求められるのは一定の社会的地位のある者だけに限られる話です。

社会的地位があるものは社会的責任を負うというのが基本的な考えです。そして地位を得る為に自分の為だけに頑張った期間があるからこそ他人へだけ貢献する時間も設ける余裕が生まれます。

この他者への貢献とは自分の中から生まれる感情であるべきです。自分の人生に余裕が出来るからこそヒトへの貢献を考えるという前提があるにも関わらず、自分の人生を成功させる為に他人へ奉仕しなさいと教えられます。

酷い時だと自分の人生より他人への貢献を優先させなさいという教え方すらあります。よ~く考えると分かる事ですが、他人が喜ぶ事を考える時に自分が喜ぶ事を考えられないという教え方が如何にナンセンスかが分かります。

自分の事をしっかり考える事が出来るから相手の事も考える事が出来るという前提が機能していません。他者貢献とは自分自身に貢献する為にしっかり考えた分を他人へも還元できるという考え方です。

この前提がなくなっている教育というのは、教育を受けるヒトを豊かにしないことだけは確かです。キツイ言い方をすれば、そう考えさせる事で誰かにとって都合の良い事があるからだと言えます。

まとめます

異端視されている間はどのようなものでも信頼はされません。しかし常識となるまでに浸透したものは例え最初は異端であったとしても疑問視される事がなくなります。

これが恐ろしい点です。異端であれば議論として盛り上がるものなのに常識となると盛り上がりもしない。つまり常識となり多くのヒトに受け入れられるようになるとそこにどんな意図が含まれているのかを考えなくなるというわけです。

そうなると支配しようとするヒトにとって都合の良い常識が広まれば、それは危険だと言わざるを得ません。人間社会で広まる常識的解釈とはつまりそういう危険性を常に孕んでいます。

その危険性を理解する事が勘違いを認識する事につながり、危険を未然に防ぐ考え方と作ることになります。反対に、その危険性に注意を払わない場合は勘違いさせられている事になり、誰かにとって都合の良いものを自分にとっても良いのだと思わされている可能性もあるという事です。

最後まで読んでいただき、いつもありがとうございます。










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