人類の食性を考察する時、なぜヒトによって意見が異なってしまうのか?




どうも皆さん、おはこんばんにちは。リンさんです。

言論や議論というものは実に難しいものです。特に主義や主張の異なるもの同士であると尚更です。

国際社会は第二次世界大戦(大東亜戦争)の戦勝国+おこぼれに預かった国々による合議制で成り立っており、彼らに届くように大きな声を上げた方が勝ちという謎ルールが適用されています。

筋が通っていない、最終的には荒唐無稽な話であっても彼らの耳に届き彼らの庇護精神を刺激すればそれが正しい事になりかねないわけです。

そんな中で自国を卑下し他国を礼賛するような論調を持つ日本人はそこそこキモい存在です。

キモいだけで済むのならそれで良いのですが、日本を貶めようと利用しようとするものからすれば「教育する必要すら無い便利なスパイ」みたいな存在なわけです。

左派は若手を繰り出し、右派はいつまでも老人たちの牙城です。そういった意味で右派がどれだけ正統性のある事を言おうとも左派VS右派は若者VS老害の構図から抜け出せません。

では、どうすればよいのか。もうこうなると相手の論点をきちんと整理して、論調を鵜呑みにしないように個人個人がなるしかないんです。

言葉の強い若者、決めつけの強い老人といった議論以外の部分で物事の価値観が決められている事は仕方の無い事ではあるわけですが、それでもそれだけではいけない時期になっています。

食事は文化だが、食性は文化ではない

何を選ぶか何を信じるかはヒトそれぞれであり、誰かの言葉に左右されるべきじゃありませんが、世に溢れるさまざまな情報に踊らされているのが現代人の常でもあります。

そんな時にどのように信じようとするのかと言うと、言動や行動、こうであって欲しいと思う気持ち、こうであると信じている概念によって決定していきます。

この仕組みを深く考えずに「何を当たり前の事を…」と考えてしまうと言う事は、その時点でかなり叩き込まれた常識というヤツに雁字搦めになっているとも考えられます。

常識とはヒトをヒトたらしめるように、文明が近代史に入った頃から徐々に形作られてきた社会を構成する概念です。

常識の用途は社会運営の効率化であり、ヒトがヒトを支配する構図を円滑化する事です。つまり「26人の超億万長者と、それ以外の世界人口36億人の有する資産が同じ額である社会」を構成する為の礎になっているわけです。

まあ常識は、人間社会がこれほど巨大になるまで育ちきってしまった概念ですから非常に巨大で、その巨大な質量ゆえに全体が見えない為に疑いにくくなっています。

それそのものは社会を構築する為のルール、人生を豊かにする為の文明ですから決して不要なものではありません。

しかし醸成した期間が数百年足らずの概念でしかない事は事実で、そのような短い期間で急速に浸透させたもので人類数百万年の期間で培ってきたものを判断するのは非常に難しいものがあります。

その最たるものが人類の食性です。狩猟最終時代から人類は何を食べ、どのような食性に適応してきたのかという事を「常識」で語るのはナンセンスなわけです。

つまり「日本人は古来から米を食べてきたから米の糖質には適応している」とか「糖質を摂取しないと脳が不安を感じるので糖質摂取は必要」だとかは現代社会の常識なだけで、人類の常識ではないわけです。

社会ではなくヒトを見よとは全てに共通する見解ですが、果たしてちゃんとヒトを見ているのかどうかは怪しい現代になっています。

誰もが持っている共通認識を話しているようで、自分だけの常識で物事を判断しているのが現代の常です。

過去の事象を過去の倫理観や環境で判断するのは、時代が先になればなるほど難しくなります。しかし過去に起こった出来事は過去の時代の流れの中で判断すべきものですし、それは人類史や人体にも同じことが言えます。

現代でこう考えられているから、これが科学的に正解というのは現代人最大の驕りとも言えるわけですね。

出来ることなら先入観と予断を起こさず事実だけを積み重ねることで思考を深められるようになるのが最高です。

まあこれだけ常識に毒されている中では、そうはいかないもんです。でも出来るだけ意識しておきたいものでもあります。

最後まで読んでいただき、いつもありがとうございます。










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