たった1つの考え方だけで自分の人生を歩んでいるかどうかを判断する事が出来る




おはようございます。リンさんです。

社会人にとって優秀さの証明とは、結論から話しそこから更に原因と結果の因果を説明することであると言われています。まあ確かにそうなんでしょうし、リンさん自身が「このヒト、優秀なんだろうな」と感じる方はそういった傾向にあるように思います。

理路整然と科学的に冷静な判断を下せるわけです。それでいて人間的に冷徹というわけではない。むしろ自らに非があればそれを素直に認め新たな価値観を自分の血肉に出来てしまう。リンさんのように割と挫折の多い普通の人生を歩んでいても今まで数人そのような方に出会えていますからマジで優秀な方というのは存在します。

ここで問題なのが、結果から話して原因と結果の因果の説明が無茶苦茶でしかも自分の事を優秀だと思い込んでいる客観的に見て「お前、アホだろ?」っていうヒトが増えてきたことのような気がするという事です。これが中々頑固で、思い込みと感情と常識でがんじがらめになっている印象しかありません。

つまりそういったアホっぽいヒトたちには「自分の価値観」しか存在しないわけです。そんな事言い出したら世の中大半のヒトがアホ認定されるわけなんですが、ここ最近でアホのバリエーションは増えないのにその深度というか重症度は悪化の一途を辿っているような……。

リンさんの周りだけでしょうか?

どうも狭い世界で生きていると正しい判断をする為の材料に欠けてしまいますね。その狭い世界の中でリンさんが追い込まれている側のヒトであるというのも関係があるのかも知れませんけどね。まあ置かれた環境を嘆くだけの時期は終わっていますし、咲けなかった自分に酔うのも好きではありますが趣味ではありません。

世界を狭くしているのは自分自身である。アホが周りに増えているような気がするというのはつまり、そういうことなんです。

選択の結果として自由がある。選択しないままでも自由があり権利もあると思い込むのは責任の欠如以外の何ものでもない。

ヒトは人生を生きるうえで必ず選択肢を選んでいます。進学、進路、結婚、出産、育児、離婚、葬儀、etc……。その選択肢は多岐に渡り一見面倒な事のように思えますが、だからこそ人生は無限の可能性を秘めているとも言えます。

しかし最近は一概にそうとも言えない状況です。

知識の貧困は思考の貧困に繋がり、やがて全てを悪い方向へもっていくからです。その貧困を常識と呼びます。日本ではかなり重要視されている概念ですね。「常識的に考えて」間違っているから相手は全てを間違っていると考えることもあるようです。それがそもそも常識的ではない考え方であるとも考えられずに。

常識は個人1人につき1つずつ存在する

常識とは個人が世界を見るための物差しでしか有り得ません。

みんなが同じ世界を見ていると思っているだけです。現実と呼ばれる名前の同じものを見ているだけで見え方は個人によって異なります。

だからこそ集団を形成する場合、同じ現実を見ようとする集団という意味で常識を適用し結束を強める必要性がありました。しかし今や生き方も多様化を辿り常識ではヒトとヒトの結束を強めるに至らないようになっています。その結果、常識で結束したはずの組織が内部から崩壊していくのは珍しいことではなくなりました。

常識は事実の積み重ねではない

常識という響きに誤魔化されてしまいがちですが、そもそも常識とは事実の積み重ねではありません。どちらかといえば状況的にそうでないと好ましくないと考えられる判断の総称だと考えます。

「常識的に言って」という前提の言葉は「私個人の考えを述べさせていただくと」という言葉とそれほど変わりはないのです。確かに常識的に判断して好ましくない状況は多々存在します。

結婚式で恨み辛みを吐いてはいけない。お葬式で笑い転げてはいけない。異性と初めてキスをする時に鼻毛が出ていても笑ってはいけない。確実にヅラなのに思いっきり突っ込んではいけない。全部妄想で話していそうな相手の肩をポンと優しく叩いて「それ、妄想だヨ」と諭してはいけない。

他にも色々ありますが常識とはそういったものです。やってはいけない事だけど、それらは全て事実ではない。

結婚式で祝いの言葉を述べながら心の中で暴言を吐いているかもしれない。お葬式では心の中で諸手を挙げて喜んでいるかもしれない。息が続かなくてこれ以上は無理だとか言いながら心の中で「鼻毛って…マジかよ」と思っているかもしれない。誰もいないトイレに駆け込んで「あのヅラの完成度って…本気なんかいな」とか叫んでいるかもしれない。

やってはいけないことなのに事実ではないからフィクションとしてマンガなどで表現されて笑ってしまうもの。それが常識です。

常識に所属する日本人

日本人は特に常識に所属している人種です。それは日本人特有の共通理解が幅広く存在しているためです。

この場合、日本人の美意識と呼ばれるもの。そしてその美意識と体現する存在がある事が大きいと考えられます。日本人はその存在を中心とした結束の強い文化を作ることで非常に強固な常識を手にして繁栄してきました。

今、その常識が揺らぎ始めています。なぜかと言うならその常識の中で生きることで結束を持っていた集団であった日本人が、日本的な集団の美意識を昇華することが出来ないまま個人の責任という価値観に振り回されているからだと考えます。

分かりやすい例がモンスターペアレントとかではないでしょうか? 彼らは自分の責任で子どもを育てているという自負を責任感として持っていますが、その責任の所在を集団である他の存在へと転嫁します。自分が頑張っているから、自分が弱い存在だから。それでも責任感を持って生きているから集団や組織は自分たちに協力しろと無茶苦茶言っているわけです。

自分の問題は自分で解決する

そもそも自分の問題は自分で解決すべきものです。その逆で他人の問題は他人が解決するべきという事も言えます。

ですがそれは他人に無関心になれという事ではありません。ヒトはヒト。ウチはウチとはよく言いますが、正しくは、ヒトはヒト。ウチはウチだから、他人が誰かの事を考えずにいても自分たちは他人の為に貢献できる何かをしようという意味だと思います。

問題は、他者への貢献という感情に乗っかって自分では何も決めずに楽をして、最終的な損失が自分に降りかかるとなればいきなり権利を振りかざすことに躊躇いの無いヒトがいるという事ではないでしょうか?

アドラー心理学

他者への貢献と自己の肯定。目的を見据えた生き方と言うのはアドラー心理学から学ぶことが出来ます。

またアドラー心理学は日本的な常識と驚くほどマッチングします。

今日本で変な常識がまかり通るのは、日本の常識的考え方を昇華できずに個人責任を理解しようとしたツケなのではないでしょうか?

他人から与えられた情報はしっかりと処理をしなければなりません。物事の真偽を確かめずに拡散する情報は恐ろしい勢いで広がっていきます。

それは事実ではないからという側面が非常に大きいからではないのでしょうか?

ウソをつくメリットは確かに無い現代ですが、「一方に都合の良いように解釈された情報」は氾濫しています。

でも都合の良い解釈の情報はヒトから与えられた情報なだけであって、真実ではありません。誰かに与えられた相手にとって都合の良い選択肢をありがたがるのはやめましょう。

情報の真偽を確かめる手段はいくらでもあります。

それと同時に、情報を信じる信じないを決めることも自分自身であるべきだと思います。

最後までお読みいただきありがとうございます。










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