社会問題の根幹には擬人化と大衆迎合がある




おはこんばんにちは、リンさんです。

コロナ禍により意外とヒマになったのか、色々なヒトが様々な分野への批判や意見などを出して、逆にそれが炎上していたりしますね。

リンさんは意見は自由だと思っています。しかし、この世界は思わぬ形でその意見を編集されてしまう可能性を秘めているというのは理解しておかねばなりません。

特に政治の話になるとそれは顕著な傾向にあり、ポッと出はだいたい意見を利用されて消えていくような気がしています。

もちろん、ポッと出の方が議論の余地を残さないほどのトンチンカンであるという事もままあるので、出る杭を叩く行為の全てが悪いとは思えませんが。

まあ基本的に政治に対して批判的であるヒトは自己防衛的な傾向が大きく、そうでない場合は左向きである事が大きくなります。

左向きのヒトは基本的に民主主義体制下での歴史を認めていませんから、政府の批判しかしませんのでここでは割愛。

老害の一種である事に間違いは無いのですが、議論が噛み合わないのでね。

批判は自己防衛だという点においての話をしていきたいと思います。

他人の批判というものは自分という視点から見た場合の話であると言えます。

どういう形であれ、それは相手への否定ですから議論を持つ事は不可能になります。

この手法の悪い部分は、自分の観点でしか物事を捉えられない事と相手の逃げ道をわざわざ確保してしまう事です。

ヒトは相手の悪い部分を見て、自分を聖人だと思い込む癖があります。これは大義とも呼ばれますが、大義とは全く異なるものです。

大義とはヒトを動かす未来の希望を語る言葉です。批判に終始してご満悦な言葉では自己満足も甚だしいのです。

ではどうしてそんな自己満足に浸ってしまうのか?

これには観念化されるほどに社会に浸透した理想という存在があります。立派な人物云々ってやつですね。

ヒトはこれを他人に求めます。いえ、むしろ有機無機を問わず全てに求めるから擬人化と言えます。

政治家に聖人性を求める。横綱に神聖を求める。男性に逞しさを求める。女性に淑やかさを求める。

ウィルスに人為的な作用を求める。愛するヒトに自分の理想を求める。会って会話した事も無いヒトに理想を求める。

そう考えると日本の社会で起こっている多くの問題がこの擬人化によって起こされているとも言える事に気付きます。

そしてこれを日本全国津々浦々まで浸透させたものこそが、不安を話すだけのヒトであり、他人を批判するだけのヒトです。

日本人は不安を思考の軸にする民族だと言われています。これがバブル崩壊後の世相を写したものなのかどうかまでは分かりません。

しかし確かにそう思える節があります。ヒトの不幸は蜜の味とはよくいったものです。

そしてそれを巧みに利用したものがいわゆるマスコミやワイドショーなどのテレビ番組です。

そもそもマスコミとは真実を報道する、あるいは多面的な情報の整理を行うといった機能を持たないといけません。

しかし日本のマスコミは何をするにしても批判が多くなります。

そうした情報を絶えず流しているせいで、ヒトは固定観念を持ってしまうようになります。

故に他人に暴力的とも言える発言をしたりします。これは全て自分の固定観念から外れてしまう為に起こります。

そしてこの行為が自己の正当性を刺激します。相手が間違っているという前提の批判ですから、そもそも議論として成立しないのですが、そこすらもこの正当性が隠してしまいます。

そしてこれが目に見える範囲ではなく、目に見えない範囲にまで至っているのが現状です。

目にみえない、手の届かないものにでも声を出して批判すれば謝罪なり何なりをもぎ取れると信じてしまった結果、相手を傷つける事に無頓着になったと言えるのでしょう。

何より恐ろしいのは、それはマスコミが仕組んだ結果ではなく、マスコミが大衆の求めるものを追求した結果であるという事です。

これが大衆迎合の恐ろしさです。

気付かぬうちに熱狂し、気づいた時には大きな過ちを犯してしまっている。

ワイドショーでも毎度のことでしょう。問題が起これば過熱的に報道し発言も過激になり、沈静化し始めると発言の語気を弱めて収束を図る。

かつて民衆を熱狂させるのは政治でした。国としての舵取りとしての手法ですから。

今や民衆を熱狂させるものは民衆が望んでいるものだけです。となると民衆の熱狂するものに政治は動くしかありません。

政治は民主主義の原則により投票において全てを判断されます。

しかし民衆の決断と熱狂を判断するものはありません。突き動かされた先に待っている奈落の責任を誰も取れないのです。

これが大衆迎合最大の欠点です。

バカな国会議員がやってもダメだから民衆主体でやるから、といったところで民衆もバカなので結果は惨憺たるものになるのは明白です。

批判ではなく議論を行い、否定ではなく対案を提示する。これが当たり前の政治にならないといけません。

もちろん政府を批判する一般のヒトも対案を持たないとね。

最後まで読んでいただき、いつもありがとうございます。










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