糖質の過剰摂取と精神の不安定 -過剰な「快」の充足は問題を起こす-




おはようございます。リンさんです。

考え方1つ変わるだけで世界はものの見事にひっくり返ります。この理屈の面白い所はまったく同じ話でも考え方1つで見え方そのものが異なってしまうという点です。

そうなってくると色んなヒトが口を合わせて呪文のように唱え有り難がるお言葉「バランスよく」とは一体何ぞやという考えになってしまい、どうも哲学的な雰囲気になってしまいます。

しかし裏を返せば、物事の決め方は考え方1つである為に考え方に縛られると議論は行えないという事でもあります。結局のところ、世間に転がっている情報の全ては自分で矛盾無く組み立てる事でバランスを為すのだというわけです。

だから自分で考える事が重要なんですよというのは人生を豊かにする最高の金言になりえるのです。

過ぎたるは及ばざるが如しを2つの側面から見る

故事に過ぎたるは及ばざるが如しというものがあります。何事もほどほどにしなさいという意味合いであり、身体に良いと言われている事でもやり過ぎは良くない結果を導く事もあるよという戒めです。

そしてこの言葉の最も面白いところは、そういった良いとされるものをやり過ぎていると不足している時や不満がある時とさほど結果は変わらないよと言っているところにあります。

まあこの言葉ですら考え方1つで色々変わってしまいます。

1つは、糖質を過剰に摂取している現代に関しての考え方です。現代はとにかく糖質を過剰に摂取しているから、その糖質摂取を制限しないと「過ぎたるは及ばざるが如し」だよといういわけですね。リンさんはこの考え方に賛成しています。

もう1つが、過剰に糖質摂取を制限しているという考え方です。ヒトは1万年の農耕生活でデンプン質の糖質摂取に適応しているから糖質を制限するのは間違っているという考え方ですね。制限するにしても砂糖だけでいいんじゃないのかという論調から、デンプンと砂糖は別物だから別途制限する必要は無いというものまで色々あります。

糖質過剰摂取と精神の不安定

現代はとにかく糖質を過剰に摂取しているという考え方は論理的に理解出来るものです。もちろん先述のどちらを信じるのかは自分自身で決める事が大事なので、この考え方が絶対的に正しいとは言いません。

リンさんは糖質制限とそこから発展する理論へと期待しています。いずれ糖質制限による思考の継続により脂質や糖質の真の代謝反応は解明されるでしょうし、それに関する個人差を考慮する思考についても深める事が出来ると考えています。

まあその前に糖質制限の考え方自体に固執してしまって、理論を思考できないオジサンになってしまう可能性もありますが……。

しばらくは糖質の過剰摂取は害となるという考えで思考を続けていこうと思います。その思考に沿っていくと糖質の過剰摂取による代謝の混乱と栄養素の不足により身体が具合を壊すのは当然の帰結となります。

健全な精神は健全な肉体に宿る。この言葉は決して精神論ではなく物事の本質を指しているわけです。心と身体の健康は繋がっており、そこには食事から摂取する栄養素が関わっています。

① 砂糖は支配の道具

過剰な糖質摂取はどうやって起こったのでしょうか。精神と肉体の問題が糖質の過剰摂取によって人体に起こった混乱だとするのであれば、貴族などの特権階級だけではなく多くのヒトが糖質を過剰に摂取するようになった時代から考察しなければいけません。

海外でも日本でも貴族と呼ばれる階級に糖尿病が蔓延していたのは事実です。日本では平安時代の藤原家、藤原道長が糖尿だったのではないかと推測される記述もあります。

では庶民に栄養素の不足による問題が発生したのはいつだったのか?

例えばイギリスでは産業革命の頃がそうであると言われています。それまで砂糖は貴族のものでしたが、産業革命により労働者人口が増えるとその労働者を確保する為に砂糖が振舞われるようになりました。

イギリスではこれが今でもアフタヌーンティーのような文化として残っています。当時はこの紅茶に大量の砂糖を入れて庶民は嗜んでいました。

今で言うと人権の無いような劣悪な環境と労働時間でしたから、その中でヒトを働かせるのに最も簡単な手段は「貴族などの特別な階級が食べているものを自分達も食べている」という優越感を持たせる事だったわけです。

日本では江戸時代に、火事によって消失した江戸の町を復興する為に江戸に集められて地方出身者が糖質過剰摂取の先駆けであったと考えられています。イギリスの工場労働者と同じような労働条件で働く彼らに支払われた対価は白米でした。

それにより江戸患い(脚気)が流行します。白米はそれ単体ではビタミンB群が圧倒的に不足するので糖質を代謝するビタミンB群を浪費します。それにより代謝が混乱し脚気を発症したのです。

これの解決は地方へ帰り療養する事、つまり白米摂取を止めて雑穀と味噌汁と漬物の食生活に戻る事でした。そして江戸の町中で江戸患いを回避する為の民間療法としてソバが重要になります。

いわゆる江戸ソバというやつで、ソバにはビタミンB群が含まれているので代謝に関して問題を起こす事が少なくなったので江戸で流行ったようです。もちろんソバによって上昇する血糖値は江戸のヒトが行っていた現代と比べ物にならない重労働である仕事や家事によって軽減もされていました。

つまり最初に糖質の過剰摂取が起こったのは労働者として使い倒す為に贅沢品であった砂糖や白米を供給した結果だったわけです。それが支配を円滑に進めると支配者が判断したからでした。

もちろん産業革命やコメの作付け面積の向上で、これらが有り余っていたのも大きな理由です。しかしこれにより糖質はより庶民に近しいものになっていきました。

② 糖質過剰摂取と精神的不安定

糖質を常食するようになると更に庶民の間に問題が生じるようになります。それこそ今までは存在し得なかったような精神的な問題、つまり精神疾患でした。

最初こそ精神疾患とは子どもの頃から成長できなかった未熟な精神が問題を起こすようになったと思われていましたが、では成長できない原因は何だと突き詰めていくとそこには栄養障害、糖質の過剰摂取があったわけです。

心とはヒトなどの生物の身体に存在するものです。心を発現するには脳が重要で、脳を育てる為には人体にとって必要な栄養素を摂取する必要性があります。この前提に躓いた事で、ヒトは抱える必要の無かった問題を余計に抱える事になったのかもしれません。

その問題とは精神疾患です。心の問題は子どもと大人の区別も無く発症します。子どもは精神疾患を起こすと問題児扱いされたりして更に問題を深くしてしまう可能性もあります。大人は精神疾患を抱えていると孤独に苛まれる可能性が非常に高くなります。

心の問題とはつまり未成熟な問題行動であると片付けられがちです。しかしそこに栄養の問題があると論じると物事は解決への糸口を見つけられるようになってきます。現代では精神的な問題を栄養不足として認識するようにはなってきていますが、それでも議論は前に進んでいきません。

それの最も大きな問題点として両親から受け継がれる貧困という問題があります。糖質の過剰摂取によって起こる問題が根幹に横たわっていても両親がそれに問題を感じていなければ、栄養素について考えるなんて事はありません。

イギリスでも日本でも大きな問題となっていますが、問題児だけを集めるような学校すらある始末です。精神疾患とは精神的な未成熟さであるとだけ結論付けた責務がここにあります。そしてそういった姿勢が国を覆う空気として存在する時、議論は前に進まなくなります。

少し前イギリスで、砂糖添加の飲食物を学校に持ってこないように指導した学校に親が不服を訴えるといったニュースがありました。イギリスでは子どもの暴走が特に問題視されている為、砂糖の及ぼす害の知られてきた今、学校としてはリスクを回避する為にこういった施策をとったのだと考えられます。

これを自分達が持つ自由といった権利の剥奪だと考えて親が声を上げたわけですが、多様性を認めるという論調と清涼飲料水を持ってこないという事は両立する問題です。既に異性化糖の問題は明らかですから、親の言い分はむしろ多様性を阻害していると思われてしまいます。

その親にとって砂糖は悪くない。だから子どもにとっても悪いはずが無い。こういった考え方が続く事で議論は止まり貧困を招きます。権利だけに固執する事は何も生み出しません。権利を持てる知性を持つ事でヒトは前に進みます。

過ぎたるは及ばざるが如しと考えれば、1日の食事の大半を炭水化物である糖質で賄う事に問題が無いわけ無いのです。ですが多くの場合、それは問題になりません。

だからこそ問題がそこにあると仮定しなければなりません。疑問の余地を挟まないものは世の中にそれほど多くなく、全て仮定された事実によって話を円滑にしようとしているに過ぎないわけです。

この記事が誰かの思考の一助になれば幸甚です。最後まで読んでいただき、いつもありがとうございます。










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