誰かの喜びを基準にしても自分自身が不幸になるだけ




おはようございます。リンさんです。

日本では提供されるコンテンツが全てサービスであるかのように扱われます。

それはモノに限らずタレントやアイドルといったヒトにも当てはまる事で、取捨選択の基準にもなっています。

しかしそこはやはりサービス過剰期待国家の名に恥じず、ユーザーがあるまじき要求をするといった異常事態を起こしています。

コンテンツ提供者は基本的に自分達が楽しい事と公共の場で披露できるものの境界を鑑みて物事を提供しています。それがヒトであれば個性を上乗せして大きな付加価値にするわけです。

偶像崇拝だとファンの中でもイメージに違いがあるので、そこが本来であるなら埋めるべきギャップ、つまりは楽しい部分なんですが、そこが嫌だと言うヒトが増えているんですね。

要するに「今時、子どもでもしないような子どもじみた事」をしているって事です。

自分の幸福を他人の物差しに委ねてはいけない

幸福になると聞くと胡散臭さが全開になってしまいます。その胡散臭さを乗り越えて幸福について考えると、幸福には大きく分けて2つが存在する事に気づきます。

1つは物理的な幸福。いわゆるお金で買える幸せってヤツですね。

日本人は会社単位では守銭奴であるにも関わらず、個人単位ではお金を稼ぐ事全てが悪い事だと考えがちです。

この考え方も実は自分を不幸にする考え方で、他人から植え付けられる価値観のせいでこういった事を美徳だと思い込まされています。

お金で買える幸せは、将来の不安解消、現在への投資、生活の質の向上などですね。

近年の研究では、子どもの才能を開花させるのは努力では無く幼少時の教育環境に依存するらしいので、才能があってもお金を使って教育に投資しないとその才能は開花しないという事が分かっています。

どうしてもお金の問題から、親の「やらせたい事」を優先し子どもの「やりたい事」を子どもを見て判断してから教育に投資するというのが難しくなってしまいますからね。

もう1つの幸福は精神的な幸福です。とは言ってもメンタル的な幸福は如何わしいものもあり十波一絡げにはいかないわけですが、ここでは個人の幸福の追求としておきます。

というのも日本では個人での幸福の追及も軽視されがちだからです。常識的な幸福という観念的な価値観を重んじるばかりで、個人ごとに異なる価値観や幸福の形を求めると自分勝手であったり身勝手であるような烙印を押されてしまいます。

他人の幸福を追求する為に努力しなさいというのが美徳として刷り込まれているせいです。

確かに社会で役割をこなしていく以上は、自分以外のヒトの幸福に寄与する事が大事な要素ではあります。

しかし不健全なまでに他者貢献を強いるような教育を行ってしまうと、自分自身の幸福を追求する事に対して負い目を追ってしまう弊害が起こります。

実際、日本ではそうなっていますし、何なら自分の幸福を追求している相手に対して攻撃的になったりする側面もあります。

では何故、ヒトの幸福追求の姿勢に対して攻撃的になるのでしょうか?

他者の幸福に寄与する事ばかりを求められる事で自分の幸福を追求する姿勢が疎かになってしまいます。

そうなると幸福が追求できない人生に対しての満足度が低くなり、人生の質であるQOL(Quality Of Life)が低下してしまいます。

そうなると他者の幸福に対して寛容になれません。ヒトの不幸は蜜の味とはよく言ったもので、まさに言葉通りの精神状態となってしまうわけです。

相手の為に生きる事を徹底される教育のせいで、他者に寛容になれないとは皮肉な話ですが、多くのヒトがそう指摘されたところであまりピンと来ないというのが最も悲劇的な話かもしれません。

自分を大事にできないと相手にとって大事なものも大事にできないわけです。

相手の荷物を持ってあげる事ばかり考えても、相手が軽くなるだけで自分は何も軽くなりません。

まずは自分の荷物を何とか出来るようになってから相手の荷物に関して考えるようにしないと、重荷を背負いすぎてどうにもならなくなってしまいますからね。

最後まで読んでいただき、いつもありがとうございます。










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