必要とされる老害? 不要な老害?




おはようございます。リンさんです。

汗水垂らして働く奴が1番偉い。お客様は神様だ。あおり運転をしても自分に正当性があるから平気だ。

こういった主張は精神性が同じようなところにあるような気がしています。

では、汗水たらした奴が最もお金持ちになっているのでしょうか? 神様という事は全能なはずですからそもそも他者からのサービスなど必要無いのでは? 正当性を有しているのなら強権的ではなく理性的になるのでは?

とまあそういった具合に考えちゃうわけです。

劣化は放っておくと大変な事になるって好事例ですね。1つの価値観や自分の目線だけの価値観を語るとどうしても偏ってしまうからです。

まあ視点と論点が偏るのはヒトの脳の仕様上、仕方ない事ですけど出来るだけ偏りを少なくしていきたいと思います。

絶望防波堤から希望防波堤になったオジサンが老害なのだよ

必然性の悪と呼ばれるものとして必要悪があります。反面教師とも呼ばれるそれは程度の差こそあれ社会にとって利益をもたらす存在になり得るものです。

酩酊するダラシない姿を晒すものや、特定の誰かを権力や強烈な感情で否定するもの、自己正当化を繰り返し他人批判に逃げるものなど様々なものが社会を構成する少数派の要素である悪を成しています。

しかしそういった必要悪は社会にとって必要な少数派の毒素であるから社会の自浄作用が働いているから有用なのであって、日本のような毒素が多数派を占めてしまうとそうも言っていられません。

今や社会の大半を占めるオジサンという種族が少数派が為していたであろう絶望防波堤の役割を無くしてしまっているわけです。

多数派になればなるほど生み出す歪みが大きくなるのが真理であるならば、オジサンという問題を抱えた集団が最も大きな分母となった社会に生み出される歪みが相当大きいのは想像に難くないと言えます。

つまり、ウザったい誰かに対して不快な感情を抱かせるオジサンが少数派であった時代は反面教師として適当にあしらっていればよかったものが、オジサンが多数派となった事で鬱陶しい上に数の上でのマジョリティという市民権を得てしまっているのが今の日本というわけです。

その上で、多様性や共感といった感覚を主とする新しい時代の流れと逆行しているギャップがオジサン批判の原動力となっている一面があるわけです。

そんな中でもオジサンは社会を構成する上で必要な存在である。社会にとっての抑止力となるべきだという意見があります。

何を世迷いごとをと思ってしまえば、そこで試合終了ですし、そんな議論の終わらせ方もまたオジサン的で好ましくありません。

ですからここではオジサンが抑止力として働くにはどうすれば良いのかというところから始めてみようと思います。

しかしここで注意してほしいのは人生の糧になりそうな迷惑なオジサンが側にいても、それが自分の肉体も精神も壊しかねないほどの愚かなオジサンであるなら側に置いていくべきではありません。

他人の人生を迷惑な発言や、ほぼ暴力な言葉や態度で破壊するような相手に対して同情なんて必要無いからです。何よりも優先するべきは自分の人生であり、人生を豊かに出来るのならオジサンも側で呼吸しててもいいよくらいのスタンスで望むべきです。

選べなかった人生の中で見つけた、たった1つの至上の価値が仕事だった

オジサンが変えなくてはいけないものは、態度や言動ではありません。たった1つの意識です。

それを変える事が出来るのであれば多様性を認める社会に順応する事も出来るでしょうが、問題はそれが最もオジサンという集団にとって難しいという点です。

意識を変えるだけというのは本当の話で、その意識が変わったからといって自分より若い世代に迎合するような態度をとる必要は無いですし、自分より若い世代を否定するような態度をとる必要も無くなります。

「そういう価値観もある」とか「その価値観で生きていく事も出来る時代になったわけだ」という理解に至るわけです。

現代は非常に豊かな時代であると言えます。仕事という観点で言うと社会主義的な考え方が横行しているわけですが、それ以外の様々なもので多様な考え方が生まれています。

逆に言ってしまうと、オジサンが若かりし頃には多様な価値観が存在しなかったのです。

自分自身で選べるものの少ない時代。そういった時代において自分の価値を認識できる瞬間が働く時でした。

というよりもガムシャラに働く価値観以外のものが存在しなかった時代ですから、働いて働いて働き通して得た専門的な知識や階級が全てだったわけです。

その専門性や役職などの価値観が会社以外では通用しないという現実をオジサンは理解できません。

これが強権的で支配的なオジサンの正体です。自分の価値観以外を知らないどころか、その価値観が狭い会社組織の更に狭い自分の周囲でしか通用しないという事が理解出来ません。

自分の持っている価値観が社会でも通用すると思っています。ここが最大の問題点です。

ひどくニッチな例えになりますが、ファミ通という雑誌で発行されていたガバスという単位の通貨がビットコインなどの仮想通貨と同じように現実でも通用するだろうと思っている小さな子どもと同じなわけです。

小さな子どもの生きている小さな世界が全てだと思っているのですが、これを再認識させるのは難しいものです。

「生きている世界が狭いよ」と言っても、当の本人には世界の全てだからです。

そして狭い世界をどんどん広げられる子どものような柔軟性もありません。年齢がこだわりを強く構成してしまって世界を返られないのです。

オジサンが多様な価値観の世界で生きていく方法。老害にならずに、とりあえず初老から老人まで時代に即して生きていく方法とは意識を変える事です。

しかしその意識を変えられない。当たり前で特に問題が無いと思っているものを変える事が難しいのです。

2025年。団塊の世代が軒並み高齢者の仲間入りをします。その中に高い割合で間違いなく存在しているオジサンが問題となる事でしょう。

医療だけではなく大きな社会問題となるかもしれません。

だからこそよく考えて欲しいわけです。自分より若いという事は自分の老後を税金的にも家族的にも面倒を見てくれるという意味です。

そんな相手に独善的な態度を振りかざすとどうなるでしょうか?

新しい価値観が浸透していった世代になってしまえば、捨てられるのは老人の方になるでしょう。

そうならない為に意識を変えるのか、1人で生きていけるように人生を設計しなおすのか、とりあえず何か行動しないといけない岐路に立っているのかもしれません。

最後まで読んでいただき、いつもありがとうございます。










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