日本の諸問題 -毒親とすねかじりの系譜-




おはようございます。リンさんです。

相対性理論に基づけば、タイムマシンは既に完成しているのだそうです。止まっているものよりも高速で動いているものの方が時間の経過が緩やかになるそうで、この理論でいうと新幹線などの高速で移動する乗り物に乗っている間は時間の経過が遅くなるようです。

とはいうもののそれは微々たる変化でしか無く、皆が頭に思い浮かべるタイムマシンとして機能させるには光速で走行できる乗り物か、光速で走っている時と同じ時間の流れを持った空間を作り出す必要があるようです。要するに実用化はまだまだ遠い未来の話だと言う事です。

しかもそれが実用化できたとしても、そのタイムマシンは過去には行けません。時間を逆行する乗り物や空間などは存在しないので、時間を巻き戻すのは不可能なのです。

人類の科学が次の段階へ進むのには相当な時間が必要なようです。しかもSF小説ではないですが、アインシュタインが唱えた相対性理論を突破できるくらいの天才が現れないといけないのかもしれません。そうなるとAIの存在に科学技術の発展はかかっているのかもしれません。

しかしそうなると論理的思考を積み上げる事の出来るAIは人格を有するのかもしれません。人類は科学技術により王となるのか、それとも奴隷になるのか。是非とも長生きして見届けたいと思う面白い時代です。

毒親、すねかじりに連鎖する貧困

日本は問題の多い国です。どの国でもそうではあるのですが問題意識の薄い人々は自国の問題に無関心です。それはご他聞に漏れず日本でもそうであると言えます。

内省の意味を履き違えてしまった日本では「とりあえず反省しとけ」という論調が強く、それは世代を問わず行われています。何だか知らないけど意味も無く怒っているヒトがいるから適当に謝っとけばいいという、他人に反省ばかりを強いて自分達を省みなかった上の世代への無関心が広がっています。

上の世代への反感というか抵抗というものは人格形成において重要ですし、その考えを持てるほどに反省ばかりを強いる上の世代に飽き飽きしている世代が生まれたというのは大きな進歩ではあります。しかし上の世代の何が問題で何が嫌なのかを理解しなければ、物事を根本的に解決できません。

上から強いられた生活を送っていると、自分がいざその立場になれば同じ事をしてしまいます。それは家族でも学校でも部活でも社会でも会社でも同じです。そしてこれこそ日本に蔓延する貧困の正体なわけです。

どこがダメなのか何が問題なのかを理解して、そこから脱却しようとしなければ、ヒトは同じ過ちを繰り返します。脱却しようとしても問題が起こるのですから、何とかしようと気付かないヒトは自然と同じ事をするという事になってしまいます。

家族をおかしくする病の正体

家族が問題を抱えるというのは何ででしょうか? ここでは問題を起こすようなルールとは何だという事を考察していきます。ルールには2つあり1つが自然に存在するルールでもう1つがヒトが作ったルールです。

当然のように自然に存在するルールとは自然を維持する為のルールです。つまり自然のルールに則っているものは問題を起こす事は少ないものであると言えます。

もう1つのヒトが作ったルールとは、ヒトが社会を形成し共同体を形成する為に必要としたルールの事です。当然、共同体を維持するためにヒトが自ら作ったものですから綻びが存在します。

共同体を維持するという事自体が勘違いをベースにしているので、それを支えるルールも勘違いをベースにしています。この勘違いは常識とも呼ばれる共通認識の事で、それは人種、世代、地域、性差など多くの要因によって簡単に変わってしまうものです。

つまりヒトが作ったルールは共通の認識である常識が崩れてしまった時点で不具合が発生するものであるという事になります。

家族という共同体の崩壊は、この共通認識の崩壊が引き金になって起こっています。つまりは家族という枠を作るルールを作り直さなければ時代に即さない環境になっているというのに、未だに「家族」という単語だけで色々なものを切り取ろうとするから問題が大きくなるわけです。

親の役割は期間限定

親はいつまで経っても親であるというのは間違いないわけですが、他者への承認や自己承認機会の薄い日本でこの言葉を額面通りに受け取るとヒドい事になります。というのも、死ぬまで親の責務を果たさなければならないという概念が蔓延しているからです。

そもそも親とは生命として未熟で1人で生きていけない子どもに生きる為に必要な知識である学問、生きていく為に必要な肉体を作る食事を提供する存在です。

そう考えると親というのが期間限定の職業のようなものであると考える事が出来ます。子どもが成長していく様を見つめ、やがて独り立ちが出来る頃にその背中を押してあげるのが役目なわけです。

自然界での子育ては正にそれで、餌を取る術や敵から逃れる術といった生きる為に必要な事柄を教えてしまえば、その親子はそもそも家族としては成立しなくなり、多くの場合違う群れを形成していきます。

子どもが独り立ちした後は、親は自分の生活や人生を重視して生きるという生命体としての基本設計図がここにあるような気がします。少なくとも独り立ちをさせる為に、親は親の役割を果たすのであって、それが死ぬまで続くなんてあってはならないわけです。

すねかじりと親という業務の延長

しかしヒトの社会、特に日本の社会ではこの親というシステムの延長を行う事が頻繁に行われています。それというのも、子どもの晩婚化、あるいは親と一緒に住んで親の資産に頼って生きていく子どもも多くなってきた事が原因であると考えられます。

既に一個人としての人生を重要視するように生命体の設計図で指し示されているにも関わらず、それでも資金的にも精神的にも親をしなければいけなくなるというわけです。

独り立ちする時期というのはヒトそれぞれですから、親と一緒に住む事自体が悪いという事ではありません。ただ、この親という役割の延長は親にも子にも良い影響を与えません。

やがて家族は与える側と与えられる側という価値観に縛られるようになり、独り立ちしない子へと怒りを強めたり、独り立ちしないように精神的に追い込んで一緒に住み続けるようにしたり、あるいは子が親を追い詰めるような状況に陥っていきます。

そうなると子どもの自立が出来ない事に問題が集約するのかという議論になっていきます。ここに日本の問題が隠れています。

教育熱心な親、管理したがる親などの毒親と呼ばれる親の存在も大きいのです。教育に熱心でも親がその教育の本質を理解していなければ、それは教育ではなく虐待になります。管理したがる親も同様に、子どもの自己承認を管理し、それが子どもの心のコントロールにまで至るので虐待と言えます。

これが貧困の連鎖です。自分とは違う人生を歩ませたいから頑張ってもらいたいという願望は純粋なものですが、その為の手段を知識として得た上で理解まで及ばない限りは、子の人生は親をなぞります。

そうこうしている内に、子どもだから放っておけないとか、子は親に感謝するべきだとか、相手が自発的に持たなければ意味の無い感情を強いるようになります。

問題は親の方にこそ大きいと言えます。子どもが問題を抱えている場合、誰かのせいにしたり本人のせいにしたりするのは自由です。しかしその考え方の中に、自分の教育にも問題があったのではと考える事が出来ないのは問題です。

そういった感情が親にも子にも存在するようになると、それは家族の絆ではなく共依存という関係になります。毒親は依存させるし、依存もするのです。そしてそういった親は特殊な例ではなく普通の家庭にも存在しています。

大抵のヒトは大げさな話だと思うのでしょうか。しかし大げさだと思っている事自体が思考を止めてしまっていると考えられなければいけない時代になっています。

家族というルールを見直さなければいけないというのは空しいものですが、支えるはずの若者が減少していく時代に若者の事を考える事の出来ないオジサンはただの老害になってしまいます。

家族にオジサンは必要ありません。距離感の再設定をする事で快適な家族生活を送れるようにしなきゃなりません。最後まで読んでいただき、いつもありがとうございます。










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