無限の可能性を責任感で見失ってはいないだろうか?




おはようございます。リンさんです。

若者は無責任だそうです。社会人としての責任も全うせずに自分のやりたい事ばかりを追求している。

まあ確かにそういう側面はあると思いますが、しかしそれは若者の特性ではありません。自分を省みる事のできないオジサン達は自分達がそうだから次の世代へその特性が引き継がれている事に気付けません。

自分の気持ちいい事。自分を持ち上げてくれる可愛い部下を重宝して世の中をアホの大集団にしたのは、若者には努力が必要だよと言っているオジサン達です。

若者は自分の才能がありそうな事に関しての努力を惜しみません。そういう風に世代は変わりつつあります。社会的な責任を背負う為の方法論として自分のスキル磨きに責任感を持っているのです。

問題はそういったスキルを磨ける、あるいは磨く為には身を粉にして会社に尽くすのが1番だと言って若者の持っている責任感と努力の方向性を恣意的に歪めている存在がいる事です。

もちろん若者の中にだってアホはいます。それはどの世代であっても存在するものです。ですが閉塞感を打破できない現状の問題点とは社会の力をここまで落としてしまったオジサン達の方にこそあります。

若者はそんなオジサン達がたっぷり作った借金を返済してくれる世代です。しかしそれはオジサン達が借金返済の運用指示を出しているのでは困難です。そしてそういう部分をオジサン達が理解する事はもっと困難です。

これを理解できるヒトはオジサンではなく人生の先輩です。尊敬とはそういった部分から得て欲しいなと思います。無理でしょうけど……。

仕事が出来ないヒトを全員解雇すると起こる事

どの会社でも必ず「コイツは仕事が出来ない」とレッテルを貼られる人材がいます。それは大きな問題行動を起こすホンモノのあばれる君であったり、有能すぎるので上司にとって目障りな存在であったりします。

しかし健全な会社であるならば仕事が出来ないという定義は3つに定められます。

  1. 求められる能力を満たしていない
  2. チームワークに支障を来たす
  3. 会社の目指す方向性を理解していない

概ねこのような感じです。会社の中で社員とそれ以外の2層構造が作られやすい日本の会社ではよくある事ですね。マネジメント職が会社の方針を理解していない、パート社員が平気でヒエラルキーを作っている状態なんかがそうです。

その中でも目立つ存在が仕事が出来ないとレッテルを貼られてしまうわけです。日本式のやり方では仕事に使命を与えず誰にでも出来る仕事をずっと繰り返すだけの作業を続けさせ自主退職に追い込むなんてザラにある話です。

そんな中、会社にとって仕事が出来ないであろう人材を全て解雇した会社に起こった事が話題になった事がありました。

その会社では従業員の3割を解雇したそうです。その場合に考えられるのが、個人の労働密度が増加する事です。キャパシティを越えてしまって生産性が落ちてしまうのではないかという懸念でした。

しかしこれは杞憂に終わります。むしろ労働生産性は向上したのです。会社にとって必要な人材だけを残し会社としての目指す方向性をハッキリさせた事で、生産性が向上するという結果になったようです。

この話をしているのは、会社で仕事できないヒトは解雇されても仕方ないと言いたいからではありません。たまたまその会社の目指す方向性と合わずに仕事が出来ないと言われただけで、あなたの価値が落ちたわけではないという事です。

特に日本では不必要なまでに会社に愛着を抱くように教育されます。掲げる理想の高さが先ほどのような会社であるならば生産性を向上させる事も可能でしょう。しかし多くの会社ではそれは無理です。

ちょうど理念を掲げる層と労働者層がアポロチョコのように明確に隔てられているからです。会社にとって必要な人材が仕事が出来るのではなく、会社にとって都合の良い人材が仕事が出来ると判断されます。その結果として何をしているのか分からない役職が存在し、平社員の給料は新入社員から30代に至るまでほぼ昇給しないというのが日本の現実の一部です。

自分が咲く場所は自分が決めて良い

社会に出て社会人として責任を全うする為には、会社に属して社会に奉仕する必要がある。これって実にバカバカしい話です。一個人が社会人として責任を果たすのに、就業形態など何の問題にもなりません。日本ではそういった風潮であるというだけです。

そういった風潮なので必要以上に会社に所属したいヒトが集まってしまいます。その結果、先ほどのように会社に仕事が出来ないと判断される事が多くなります。企業理念の一貫した会社であるならば、その分野に対して確かに仕事が出来ないのかもしれないので、仕事を諦める事も次を求める事も容易に出来ます。

向いていないと言われる事が、次へ進む足がかりになるからです。

しかし一部の会社では生かさず殺さずで会社の中で放置している場合があります。仕事が出来ないとも言わず、それでいて社員としての扱いはしない。自主退職の希望が出るまでひたすら待ち続ける。

これって拷問と同じです。人生がその会社で始まり、そこで終わるなんてものは妄想です。そんな妄想だけを信じさせて実際は人材として必要が無いから教育の機会すら与えられません。そしていざとなったら残った社員をまとめて切り捨てるわけです。

切り捨てられた時にはもうどうしようもありません。長い間の人権を無視したような会社の仕打ちが思考能力を奪ってしまうからです。

偏った意見だと思うかもしれません。しかし事実としてこういう会社が存在していなければブラックやホワイトなんて言葉は生まれません。要するに大きくとも小さくとも会社とはそういう面を持っているという事です。自分は大丈夫かもなんて考え方は持つべきではありません。

会社で咲けるヒトはその場所で咲けばいいのです。安定的な給与があり、人間関係次第で出世も可能です。周りの評価よりも仕事が出来ないのであれば仕事が出来るヒトを偉くなって使い倒せばいいのです。誰も文句は言いません。問題は自分自身が仕事が出来ないと自覚できない点ですから。

ですが自分が会社で咲けないかもしれないと思っているのなら、何も無理してそこで咲く必要は無いです。何ならその会社で適当な仕事で給料を得ている間に自分が咲ける場所を探したり作り上げたりすればいいのですから。

まとめます

冷静に考えるというのは難しい話です。

所属する場所で一生懸命やる事で自分の人生に何か得るものがあるのならば、それは必要な努力です。誰かの為にという言葉の割合が大きく将来の自分に対して利益が見込めないのであれば、それは無駄な努力です。

必要な努力が行える場所なら嫌な事でも多少は目を瞑る事が出来ます。無駄な努力をしている場所なら嫌な事は本当に嫌な事のはずです。

咲く場所は自分で選べます。選べないと思っているのは、そう思わされているから。仕事が出来ない、コミュニケーションが出来ない、扱いづらいと誰かの評価の中でばかり自分を考えてしまうからです。

そういった「ご意見」は非常に参考になりますが、ご意見を言った相手が自分を認めてくれない相手であるのならば必要以上に深く受け止める必要はありません。だって、その相手は仕事が出来ないヤツとしての評価基準しか持っていないからです。

仕事が出来ないのは会社の方向性にとってという話です。酷い所では上司にとって目障りという理由が横行します。そんなどうでもいい事に心を削られるよりも、自分の人生について心を割くべきです。

会社は仕事が出来ないと判断しても急なリストラなんてしません。だったらその給料で生活を繋げて自分の望む人生を実現する為のプランを考える方がよっぽど有益です。

会社はあなたがいなくなっても困りません。そして、あなたも会社がなくなっても困りません。

最後まで読んでいただき、いつもありがとうございます。










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