事実の優先は愚かな事なのか?




おはこんばんにちは、リンさんです。

倫理を重んじれば技術の進歩は遅くなり、弱者救済を謡えばヒトの社会は弱体化していきます。

これは性悪説を根源とする考え方であり、君主論にも通じるものでもあります。

しかしノブリスオブリージュと庶民派が相対するものであるように、厳しい性悪説よりもヒトは耳障りの良い性善説を信じたがります。

耳障りの良い言葉を信じたがるのは個人の自由ですが、性善説の大きな問題点は「誰にでも善性があると信じ込む点」です。

自分を変える手段としてのツールなら使い勝手が良いものでも、他人を知り変える手段として用いるには少々過ぎるものだったりするわけです。

事実の重視が科学的では無いから愚かだというのは科学を信頼し過ぎな頭でっかちな意見かもしれない

科学的根拠が無ければ信用に足らないとするのが科学ですが、ここで気をつけないといけないのは科学は未だに発展途上の学問であり現代の正解が未来永劫正解だとは限らない点です。

つまり科学的根拠のみに頼るというのは机上の空論を拠り所にするようなもので、そしてそれは盲信に他ならないわけです。

誰かの説得に科学を用いるのは重要な戦略ですが、それだけで物事を語るのは自分の現実を認識する手段としては片手落ちと言わざるを得ません。

科学はこの世界の全てを把握する為の重要な手段です。

しかし科学で解明したものの全てが正しいと思うのは非常に危険だと言えます。

起きた事象から仮定を導き出しそれを証明する為の実験を行い、結論を導きだす。

つまり結論を導きだす仮定が間違っている可能性もあり、結論の解釈を間違ってしまう可能性もあるというわけです。

そこで重要になってくるのが事実の重要視です。

事実とは客観性の無い、科学的根拠の薄い自己の成功体験です。

「これで病気が良くなった」とか「気持ちが晴れやかになった」とかそういった他人から見れば眉唾な段階の経験則を信じる理由とは何か?

それは前述の科学的根拠の正誤が全く分からないという点にあります。

それにひきかえ「これをしたから自分は良くなった」という経験は絶対的なものになります。

しかしその経験則だけを信じるのであれば、なんでもかんでも信じてしまうという事態に陥ってしまいます。

そこからが科学の出番というわけです。「どの科学」を信じるのかというのは、自分に都合の良い現実をどのように信じるのかで価値判断の基準を決めるわけです。

科学よりも事実を重視するなんて愚かだとよく言われます。

しかし科学の欠点を頭に入れずに、自分が感じた事実を否定する事はそもそも難しいのです。

自分にとって都合の良い事実を重視するのは何も悪い事ではないですし、愚かな事でもありません。

大きな問題となるのは、ただただ事実を重視するよりも快だけを思考停止で求めてしまう姿勢にあります。

最後まで読んでいただき、いつもありがとうございます。

 










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