量子力学的ストレスマネジメント




おはこんばんにちは、リンさんです。

糖質が絶対悪であるように糖質制限実践者が語っているような論調の糖質制限批判記事を目にする事があります。

ただ控えめに言って糖質=悪の図式を構築して批判的な論調を展開しているヒトって実は糖質制限肯定派の意見を理解していません。

糖尿病なら糖質は止めておいた方が良いし、糖尿病じゃなくても糖質は控えれば健康に良い影響を及ぼす可能性が高いと言っているだけであって、何かを一方的に攻撃していません。

まあ現代の糖質過多の食生活を批判はしていますが、それでも相手を悪と見做して攻撃を繰り返すような手法は好みません。現代の食生活には問題が多いってのは誰でも共通見解ですよね多分。

実はこの手法ってカルトと呼ばれる集団心理の手法でもあります。余所に悪を作っておけば自分達の論調を安全圏に置けるというわけです。

糖質制限は持続的な地球環境を構築するような崇高な手段でもなければ、大きな理想を掲げているものでもなく、ただただ食生活というライフスタイルの1つに過ぎません。

ライフスタイルに否定も攻撃も無いですよね。ぶっちゃければ、やりたいヒトだけ実践すれば良い。そういう類のものです。

知識と知性と無駄知識

知識とは不思議なもので、知れば知るほど無駄が大きくなります。効率が悪いとも言えるその正体とは、知識を自らの身に置き換える事が出来ない事で起こる現象です。

ヒトに説明する時、専門用語を用いながらも平易な表現で分かり易く説明できるヒトっていますよね?

ああいった状態になると知識は自らの知性を高めるものとして存在できているという事になります。

しかしまあ多くのヒトは専門的な言葉を使い、相手の理解を無視して自分の論調を繰り返す傾向にあります。

車の整備を頼んで説明を受けている時でも何言ってるのかサッパリだったり、医者の説明を聞いても何言ってるのかサッパリだったりと枚挙に暇が無いわけです。

もちろん専門用語とその意味をある程度理解しておくという聞き手の受け入れ態勢も必要になってきますが、自分と相手の共通認識が全く共通していないという事を理解した上で物事を進められるヒトって頭が良いわけです。

それは、裏を返せば共通認識に縛られてしまっているという事で、ヒトは知識を無駄にしてしまい選択肢を狭めているという事でもあるわけです。

そして世の中には無駄知識と呼ばれるものが蔓延する事になるわけです。しかし本当の意味で知識を無駄にしているのはヒトの認識性能のショボさであると言えます。

自分に必要な知識をしっかりと理解し、何も知らない相手にもある程度の理解を促す事の出来る説明をするという事で知性として高めないと大抵の知識は無駄になってしまいます。

無駄知識を愛し、ユーモアを持って持論を話し、時に皮肉やブラックユーモアで世の中の矛盾を風刺する。これこそがリンさんの思う知性の正体です。

量子力学とストレスマネジメント

さて、ストレスマネジメントの重要性に関しては言うまでも無く理解出来るほどに、世の中のストレスに関する処方箋は多くなっています。

その多くは出来事に対するもの(対物)であったり、起こった症状に対するもの(対症)であったりします。

しかしストレスの正体とは、現代社会というシステムに対して人体が限界を超える状態で酷使されている状態であり、更には食に関しての栄養学が常識によって歪められている事に起因しています。

ヒトは小規模な旅団形式の狩猟採集動物であり、大規模な社会システムを構築するようには適応していません。これが心因性のストレスの大元になります。

穀物主体の食生活が普及しましたが、人類が培ってきた食習慣とは全く関係なかったので腸を始めとする様々な臓器に対して過大なストレスを与える事になってしまいました。

たんぱく質不足の食生活は遺伝子で構成される人体の設計図を完璧に複製できなくなり、やがて様々な不具合を引き起こします。最終的には人体が不完全な代謝を繰り返す事によりココロと呼ばれる部分にまで不具合を起こします。

現代社会がストレス過多なのは当たり前なわけです。人体が適応できない事だらけなのでストレスを生み出すようになっているからです。

ではそのストレスを根本から何とかしないといけません。根本から物事を何とかしようとすると変えないといけないものはモノの見方、つまりは常識の破壊です。

そんな時に便利なモノの考え方の中に量子力学というものがあります。特に量子力学の基本となる観測問題というヤツがモノの見方を変えてくれます。

ではその観測問題とは何なのか? それは量子力学における観測対象となる素粒子で起こる現象の事です。

全ての物質は細かくしていくと最小単位である素粒子となります。科学で習う分子や原子といった目では見えない単位の物質の事ですね。

素粒子は誰にも観測されていない時には波のように揺らいでいます。そして誰かに観測される時や認知された時は粒のように動かなくなります。

まあ誰にも観測できてない状態なのに何で波のように揺らいでいるのかなんて疑問もあるでしょうが割愛しますね。

つまり観測の有無によって素粒子の立ち振る舞いが変わるって事です。これが観測問題です。

これはヒトの感情や意識にも当てはめる事が出来ます。観測……つまり自分が何かを認識しているかどうかという意味にはめ込むと、特に何にも意識を傾けていない状態を素粒子で言う波、何かを観測している状態を粒と捉えます。

波の状態が感情を動かしているように感じますが実は逆で、何にも気にしていない状態=波がユラユラしているような状態で、粒となると何かに対して特定の感情を生み出している状態であると言えます。

例えば誰かから「気になって仕方ない」といった話を聞いても自分はそれをあまり気にしないので「あのヒトは何であんな事を気にしているんだろうか」と思いますよね?

そしてその逆もまた存在し、自分がこれほど気にしているのに他の誰に話しても共感を得られないものってあると思います。

これはつまり世界と言えども共通認識で存在しているのではなく個人の解釈によって世界は構築されているという話になります。

壮大な表現になりましたが、詰まる所、自分の世界で快を感じるか不快を感じるかは自分の解釈1つというわけです。

世界はココロを占める感情で構成される。これが1つの真理でありストレスマネジメントの手法となります。

こういった手法の話をするとどうしても何かを我慢する為の手段じゃないかと想いがちです。

しかしストレスマネジメントの手法であるのに我慢を強いるなんてバカらしいですよね。

我慢をしないストレスマネジメントとは、自分の意識を変える事と「逃げる」という選択肢をどれだけ戦略的に構築できるかにかかっています。

逃げない美徳、ヒトとしての尊厳を持った美しさとは色々な形があります。それら全て確かに尊いものですが、どれ1つとして正解がありません。

自分の世界の価値は自分で決めるという事は相手の世界における価値に尊敬の念を持つという事にも繋がります。誰かを糾弾するよりも自分をきちっと認識してあげる事の方がよほど有意義ですからね。

最後まで読んでいただき、いつもありがとうございます。










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