タバコの害は本数じゃなく喫煙の有無で決まる




おはようございます。リンさんです。

モノというのは使っていれば劣化していきます。これは自然物でも人工物でも、有機物でも無機物でも変わりません。酸素が存在する以上、全ては劣化から逃れられないわけです。しかし使い過ぎてもいけないのですが使わなさ過ぎてもいけないし、使っていると思い込んでもいけないという禅問答のような感じになってしまいます。

更にそのモノ自体の正確な用途に即した使用法を行う必要もあります。設計段階でどれだけの耐久性があり、どのくらいの耐用回数や耐用年数があるのかが決まっているからです。

これをキチンと理解する為にはマニュアルを見ればいいわけですが、問題は人体のようにそのマニュアルが常に改定を繰り返しており正解が変動し続けているものがあるという事です。

正解が分からない以上、人体に関して今のところ正解だとされている方法論で物事を進めていく他ありません。また依存する思考の根拠を学び、依存しない方向性でストレスマネジメントである快を得る方法を模索していかなければいけません。

タバコの害は本数ではなく吸うか吸わないか

タバコの害は確実にあるものとして認識されています。どこでも吸えるようにするという管理では健常者の健康に悪影響をもたらすのは明らかなのですが、いまいち喫煙者にはその実感がありません。

全てはニコチンによる依存症によりタバコを吸う事を前提にしてしまっているせいですが、どうやらニコチンによる依存以外にも脳萎縮などの弊害により価値観の更新が難しくなるのも理由のようです。

そもそも加齢により脳の柔軟性が衰えて新たな価値観を受け入れられなくなるのですが、それはタバコにより加速するようです。クリエイティブな職業なら依存の元である脳内報酬系への刺激により普段は繋がらない脳内のシナプスが繋がって新しいアイデアを思いついたりもするようです。

これはいわゆる精神的な疾患を持つヒトが有している天才的なヒラメキといったサヴァン症候群に見られる脳の動きに酷似したものが起こるという理屈で説明されています。そう考えるとタバコがクリエイティブな発想を生み出すのかとも言えますが、それは「ヒトによる」としか言いようがありません。

サヴァン症候群が精神疾患を患ったヒトなら誰にでも起こるわけではないように、タバコによるアイデアの産生もまた同じだと言えます。更にタバコは天才を生み出すわけではありません。経験を依存で起こる脳内の働きによりランダムに組合わせる事で発生するアイデアですから、元々それなりの教養が無ければアイデアは出てこないからです。

それでもタバコにはクリエイティブなメリットがあると語るのは簡単ですし、喫煙者はその理論を支援します。しかしそのメリットが起こる反応によってもたらされる負の側面を語らないのは問題が多い論理展開です。

脳内報酬系を刺激するという事はクリエイティブな刺激を起こすかもしれません。しかしそこを刺激する事で起こるのは依存も同様ですし、更に情動の不安定も起こります。それは大人になっても深刻な状態になる可能性があるのですから、子どもであれば尚更です。

となると副流煙による受動喫煙にさらされている全ての健常者に対して精神疾患の元になるような有害物質を散布しているにも関わらず、自分達の権利を主張しタバコは素晴らしいものだといっている集団が喫煙者だという事になります。こういった議論に際し重要な事は、科学的に物事を考えられているかどうかと、相手がどのような議論を望んでいるのかを考える事です。

喫煙者は自分達の側が被害者であると思い込んでいるので、相手が自分達の事を考えてくれないと言います。しかし社会的な論調は全く逆ですから議論がかみ合いません。

そういったかみ合わない議論の中に「タバコの本数を減らしているから身体に与える影響は少なくなっている」というものがあります。

①本数は本人にとって意味が無い

タバコのリスクには心血管疾患や脳卒中があります。本数を減らす事に特に意味が無いのは、こういったリスクをタバコの本数を減らした分だけ減らす事が無いからです。そのリスク比はタバコを1日1箱の20本吸うヒトと1日1本のヒトではリスクが20本の時の半分程度にしかなりません。

これを聞いて健常者は「じゃあ吸わない方がずっと良いんだね」と考えますが、喫煙者は「じゃ本数減らしても意味無いやん。もっと吸おう」となります。喫煙者の依存とはタバコを吸えるか吸えないかの価値観で物事を判断するという典型ですね。

喫煙者の権利主張によってタバコの問題は方向性がおかしくなっていますが、こういった喫煙者の思考というのを理解しない議論というのも問題です。健常者優位の議論である必要はありますが、議論を進めない水掛論や喫煙者だけを問題の根幹とする理論展開は間違いです。

もちろん喫煙者が問題を大きくしているのは事実ですが、それに付き合って無茶苦茶な議論をしていては意味が無いわけです。

②本数は他人にとっても意味が無い

本数を減らせば、それだけで十分……なわけないのです。これは喫煙者本人もそうですが周りの健常者においても同様な事が言えます。

まず喫煙者が本数を減らしたところで、①のように喫煙による心血管疾患や脳卒中のリスクが変わらないというのがあります。つまりこれはタバコの本数を相当多めに吸うから問題だとしていた部分の誤魔化しが利かなくなってきたからです。

本数が関係なくリスクを高めるのであれば受動喫煙は更に問題が深刻になります。特に田舎ではマナー以前の問題であるオジサンがあふれています。好き勝手にどこでもタバコを吸うオジサンとはどこにでもいるものですが、自分がタバコを吸う領域にタバコを吸わない誰かが入ってきても気にかけないというのはマナーとして、というかヒトとしていただけません。

そこが公的な喫煙所であるなら気を遣う必要も無いでしょうが、多くが公共の場所で平気でタバコを吸っているわけです。その中で本数を減らしたと言われてもそれほど意味が変わるとは考えられません。

もう1つ、吸う本数が他人にとって意味が無い理由としてタバコは煙だけが害ではないという事が挙げられます。タバコは副流煙の受動喫煙が最も問題視されていますが、この煙は空気中・喫煙者の呼気・建造物の壁や天井などに長期間滞留し続けます。

喫煙者が居住したアパートでは数年経過しても壁からニコチンなどのタバコに含まれる有害物質が残っているそうです。更に本数の大小でのリスクはそれほど変わらないので、そうなると本数ではなく年数による蓄積数が問題になってきますね。

③本数の自己申告に意味が無い

タバコが身体に悪いというのは世界共通の認識です。ですから少々後ろめたい気持ちを持っている喫煙者の中には自己申告を過少申告するという背景が存在します。

例えばタバコを止めた旧知の食事会に参加する時に、自分1人だけが喫煙者である状況があったとします。その時、その喫煙者はその会合のある時だけタバコを止めていると言って参加します。まあ周囲はタバコによる臭いに敏感ですから気付くわけですが、それを突っ込んだりしません。

「吸っていない」とウソを付く喫煙者とは話を聞く気の無いヒトであると判断されるので、それ以上タバコについての話題を振ったりしません。こちらが止めるにもそれなりの理由があったから、そこに理解を示すからです。

しかし喫煙者はそれに気付きません。自分は上手くやっているし、実際タバコを吸っていないという発言を周りは信じていると思います。……バカだと思いますよね。でも、これが喫煙者の思考です。

この自己申告にウソを付く事の問題とは、先ほどのリスクに関して行われた調査の正確性を疑ってしまう事です。つまり吸った本数を過少申告している喫煙者が相当数含まれているのではないかという疑問です。

結果、本数がリスクを分散させるのか、それともそれほど変わらないのかという所にまで疑問を抱くようになってしまいます。最終的に身も蓋も無い結論しか出てこないわけです。

タバコには害があるから吸わないに越した事は無い

わざわざ背負わなくてもいいようなリスクを背負う必要は無い。これが心理なのかもしれません。

最後まで読んでいただき、いつもありがとうございます。










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