青物信仰とは何なのか?




おはようございます。リンさんです。

訪問歯科診察車というものを初めて見かけました。在宅支援事業の一環なんでしょうか?

たまたま見かけたものですが、歯科医療での在宅事業なんて珍しいななんて思ったりして。というよりも「自分には必要無いものだから、普段は視界に入れていないもの」って結構あるもんです。

つまり、世の中っていうのを結構な割合で切り取って生きているわけです。それがヒトによる個人差が大きいから、その個人差を埋める為に共通認識としての常識的な事実が社会を形成しているわけです。

逆説的に考えれば、そういった構成となった社会において常識を疑うというのが如何に難しいかという話でもあります。

青物信仰とは和食の根底にあるもの

青物信仰とは青いもの、つまりは野菜などの健康に寄与する効果を期待する行為の事です。

完全な余談となりますが、日本語の表現では青という言葉の中に緑が存在していました。緑の生い茂った木々を青々しいと言ったり、グリーンアップルを青リンゴと言ったりといった感じの事ですね。緑色が青色から独立したのがつい最近なので、こういった表現がまだ存在しているわけです。

んで青物信仰ですが、とにかく野菜に関しての信仰と言えるほどの信頼が半端無いってわけです。

①和食における青物とは発酵食品

和食というだけで健康食というのではありません。和食の健康に寄与する成分とは、漬物やかつお節などの発酵食品や海藻類などから得られる食物繊維やビタミンB群、大豆や魚介から得るたんぱく質、葉物野菜から得られるビタミンCであると言えます。

更に、一昔前の高強度な家事や労働によって摂取した糖質を運動により処理していた事が大きく関わっています。摂取する糖質の量も質も変貌し、運動量も絶望的に低下している現代人において和食だからヘルシーというのは一概に言えないものになっています。

和食における青物信仰とは、こういった事実により支えられていたという側面を持っていますから、現代で同じ食事をして同じような健康効果を期待できるのかとなると「そうでもない可能性が高い」となり、同じ運動を出来るのかとなれば「それは無理」であると言えます。

数十年前に比べて食卓に並ぶ加工食品が増えた事で化学合成された異性化糖を摂取する機会が増え、更に未精製穀物から精白糖質である白米に切り替わることでデンプン質摂取量も増え、野菜や果物の品種改良で甘くなった事で果糖摂取量も増えているので、糖質摂取量は間違いなく増大しています。

そうなると同強度の高負荷運動だけでは無理が出てきますし、食事を昔ながらの和食にしても上述の糖質摂取量にメスを入れない限りは同じ条件にはならないという事です。

要するに青物の栄養素が機能する条件が整っていたのが従来の和食でしたが、食事の内容だけでなく中身の栄養比率も変わってしまった現代では再現性が低いわけです。

和食や青物に対する健康への寄与というものは最早常識的な思考ですから、そこを疑うのは難しくなります。更に現代的な和食生活でも特に健康に問題の無いヒトも存在する為に、和食や青物が健康に寄与するかどうかは微妙だよと言っても反感を買ってしまうわけです。

これは自分が問題ないと思っているものを否定されると自分も否定されたような気分になる心理が機能しているので、理論で埋めようとしても無理なわけです。

大事なのは、科学的に良い作用と悪い作用がある場合、良い作用が顕著に出るヒトもいれば悪い作用が顕著に出るヒトもいるって事です。

②ピーマン伝説

青物信仰とは信仰の名がつく通り文化です。文化とは社会や個人が積み重ねてきた経験を全員で共有できる形にまで高めたヒトが社会を形成する上で重要な指針ですが、その指針の根拠となるものが曖昧となった時でも否定が難しくなるという側面があります。

更に確証バイアスが手伝って、常識を補強する理論を優先的に支持し、否定する理論を排除しようとします。ここに論理的思考は存在せず、肯定的なものを論理的、否定的なものをこじ付けと決め付けて正誤を判断してしまいます。

自分にとって都合が良い部分は見るけど、都合が悪い部分は見ないわけです。

まあこれは健康的な食事法を求めていようがいまいが誰にとっても当てはまるので糖質制限実践者であろうとも理論を妄信するわけにはいかない自戒となるわけですが、それでも何かを信じてやっていくしかないのである意味矛盾を抱えてしまう生き方でもあるわけです。

信じるのは大事ですが、信じ過ぎるのは危険という哲学的な命題です。つーこって、信じるには根拠が必要で信じ過ぎない為には根拠の理由となる論拠が必要になるわけです。

和食の青物信仰において根拠となる部分は、栄養素が非常に高い事、時代にマッチしていた食事法である事、運動量などとの相対的なバランスが取れていた事などが上げられます。

つまり、これらの条件が合わなくなった時に和食の青物信仰は価値を無くしてしまうわけですし、事実として現代において青物信仰だけでは健康を考えた時に物足りなくなっています。

しかしここで確証バイアスが強く働いてきます。青物信仰が揺るぎないものとなるような根拠を求めるわけです。そしてその根拠は科学的でなくても良いわけです。むしろ文化的に貴重であればあるほど、社会にとって寄与する部分が大きくなるので重要視されます。

これの例としてピーマン伝説が挙げられます。

ピーマンが凄く好きってヒトはあまりいないと思います。つまり食事のメインにするヒトはいないって事です。苦味を苦手とするヒトは多いですし、子どもは大抵ピーマンが嫌いです。

じゃあ何で食べるの? という話になるわけですが、ここに青物信仰が関わってきます。

青物は栄養価が豊富だから食べないといけない。というか栄養がたくさん入っているから苦いとまで考えるヒトもいます。良薬口に苦しとはよく言ったもので、それを食材にも当てはめてしまっているわけです。

生物の本能として、酸っぱいものは腐っている、苦いものは毒がある、甘いものは安全、辛いものは食べてはいけないというものがあります。

この本能を捻じ曲げて何でも食べられるようになったのがヒトですから、ヒトは本能に逆らって生きているという事になります。

本能を抑制する為に使われるものが信仰などの広義に渡る倫理観であり、これを補強する事で社会は形成されていきます。ピーマンも例外ではありませんでした。青物信仰を補強する為にピーマンが食べられるようになった経緯がとても大事だったわけです。

ピーマンが戦後の食糧難を救ったからです。

戦後、食料品に関して経済統制が敷かれ米や野菜などは自由に売買出来なくなりました。価格が管理され、市場には安い値段で供給されるようになったわけですが需要に比べて供給が圧倒的に不足していたわけです。

自由に売買出来ないし価格も安いので農家は困り果ててしまいます。そこで登場したのがピーマンでした。ピーマンはそこまで日本国内で流通しておらず、かなりマイナーな作物だったので経済統制の対象になっていなかったのです。

自由に売買できるし、1つの株から短期間で大量に収穫できるピーマンは農家を救ったわけです。この事で爆発的にピーマンが日本中に普及していきます。

そういった時代背景があり、ピーマン=良いイメージという流布が広がり、そのイメージが常識として固着する事でピーマンは伝説となったわけです。

特に栄養として優れているわけではないわけですが、ピーマンはこの1件で食卓に上る頻度が上昇し、ピーマンが日常的に食べられるという常識が生まれたわけです。

青物信仰を補強したいと思う確証バイアスが手伝う事で、この事実は捻じ曲げられて理解されます。時代背景ではなく、栄養価が優れているから食事に登場しているという認識になるわけです。

こういう勘違いを多重に起こす事で社会が形成されているという例としてピーマンを挙げてみました。しかし信仰を補強する為に使われたという事実はありますが、ピーマンの肉詰めが死ぬほど美味い事も事実なわけです。

最後まで読んでいただき、いつもありがとうございます。










コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です